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背中に寄り掛かっているシェーンがどんどん重くなり、息も荒くて話しかけてもはっきりした返事をしないので、セイリアは焦った。こういう症状が出たらまず剣に毒が塗ってあったと思え、と習ったことがある。しかもシェーンはただでさえ、足に怪我を負っているので、鐙を踏む足に力が入っていない。追手は何とかまいたものの、こんな状態のシェーンを連れて野宿するわけにはいかなかった。
というわけで、セイリアは迷惑を承知で、やっと見つけた一軒の農家の戸を、まだ空が白み始めてもいないのに叩く羽目になった。
セイリアとシェーンの服装から、やんごとなき御身分の人達であることが分かったらしく、戸を開けて対応してくれた奥さんは恭しく二人を招き入れた。事情を説明すると、奥さんは複雑な表情をしながらも、救急箱を持ち出してシェーンの介抱をしてくれた。
一方のセイリアは、疲れと寝不足と緊張の糸が切れたのとで、あてがわれた寝床に倒れこんで、翌日の昼過ぎまで死んだように眠った。
起きてみると、シェーンはまだ眠っていた。奥さんはセイリアが起きたのに気付いて、説明してくれた。
「切り傷から毒が入ったみたいですよ。このへんじゃよく盗賊にやられるんですよ。解毒剤を飲ませましたから、じきによくなります」
セイリアはほっとした。
「ありがとうございます」
「でも、二、三日は安静にしておかなければ行けませんよ。うちに泊まっていって構いませんから」
感謝の念が溢れて胸がジーンとした。
「本当にありがとうございます」
いいえ、と言って奥さんは笑った。感じのいい人だな、とセイリアは思った。
「あと、追われてらっしゃるならその格好では目立つでしょう。うちにある服を着なさいな」
「いいんですか?」
「構いませんよ。あと、敬語はいいですから」
セイリアはすこしほっとした。
「じゃあ、私たちにも結構だから」
勝手にシェーンも数に入れちゃったけど、まあいいや。奥さんもほっとしたようだった。
「すまないねえ。お偉いさんなんて滅多に来ない小さな村だから、敬語の使い方がよく分からなくて」
「さまになってたよ」
「あら、ありがとう」
敬語をやめた瞬間、一気に親しくなった気がした。
「ところで、坊やたちはどこのお坊ちゃん?」
「ええと……」
実は王太子と子爵家の子息、なんて言ったら奥さんがひっくり返ること必至だ。話を逸らそう。
「あの、実は私、女なの」
どうせここに身をひそめるなら、女に戻ったほうが好都合だろう。それに服を借りるなら、どっちにしろ庶民の服は薄い生地だから、体の線で女とばれる。奥さんはぽかんとして、セイリアをまじまじと見つめた。
「お嬢ちゃん……なの?」
「そんなに色気無いですかね……」
さすがに少し傷心して苦笑した。
「いやいや、よく化けたもんだねえ」
すっぴんのままで髪結んで、騎士隊の服着ただけなんですけど。
「まあ、ゆっくりなさいな。とても疲れた顔をしているよ」
「はい。あ、あの」
「なんだい」
「このうち、奥さんだけなの?」
奥さんはああ、と言って笑った。
「まさか。旦那と娘が二人いるよ」
セイリアはほっとしたように頬を緩ませた。
「後で会いにいってもいい? 友達になりたいな」
あらまあ、と奥さんは目を丸くした。
「あなたたちと知り合えるようなご身分じゃないよ」
「いいの。あたし、庶民派だから」
なら構わないけどねぇ、と奥さんは複雑そうな顔をした。
「そうだ、お嬢ちゃんお名前は?」
「セイリアです。セイリア・ヴェルハント」
「素敵な響きだね。女神様みたいだ」
セイリアは目を丸くした。神話なんて庶民は知らないだろうに、この奥さんは、ものすごく見る目がある。
「奥さんは?」
奥さんは笑った。人懐こい、気さくな笑みだった。
「ローダだよ」
温かなそれに、遠い記憶が疼いた。セイリア、と愛しげに伸ばされた腕にしがみついて。
「ローダさんて母様みたい」
呟いた言葉は、口の中の虚空に消えて、音となって口から出ることはなかった。
ローダの二人の娘は、マチルダとニコルといった。飾らなくて素敵な名前だ、と思う。十才にも満たない幼い子たちだったが、ローダの育て方がいいのか、二人とも人懐こい子だった。珍しい客にきゃっきゃっとはしゃいで、すごく可愛い。子供って好きだな、とセイリアは思った。ふと、ビアトリスのことを思い出して、クレオの面倒は誰かが見てくれているのだろうか、と思った。
「ともかくシェーンが回復してくれないことには、何にも始まんないんだけどな」
日頃の疲労がたたったのか、毒が熱とともに引いてからも、シェーンは呑気に深い眠りにつき続けていた。これだけ死んだように眠られるとさすがに心配になって、セイリアはローダにまとわりついた。
「命に別状はないから大丈夫よ。あの坊っちゃん、見掛けより丈夫みたいだから」
それは見当違いな気がするが、ローダさんのいう「大丈夫」の一言にはどこか説得力の強いものがあった。
セイリアはその日の夕食を、仕事から帰ってきた旦那さんも入れて、5人で取った。素朴な味が温かくて、セイリアは久々に安らぎを覚えた。夕食後はローダさんの遠慮を押し退けて不器用な手つきで皿洗いを手伝い、マチルダとニコルと一緒に庶民のゲームに興じて楽しんだ。憧れ続けた庶民の暮らしは、想像以上にのどかで、温かかった。その夜は、昼まで寝ていたにもかかわらず、すとんと落ちるように夢を見た。
翌朝起きて、ローダに元気良くおはようというと、「連れの坊っちゃんが目を覚ましたよ」と教えられた。ほっとして、セイリアはすぐにシェーンの所に行った。
「おはよ。気分は?」
「良いとは言えないけど、だいぶマシになった」
そう、と言ってセイリアは近くの椅子に腰掛けた。シェーンはまだベッドの中にいる。いつもの調子はまだ消えていて、憔悴した感じだ。
「セイリア、女だってこと言ったんだね」
「うん、そのほうが良さそうだと思って。まずかった?」
「いや。僕もその方が、気を遣わなくて済む」
シェーンはそこで目を閉じて、ふーっと息を吐いた。髪を下ろしているので、一歩間違えば女の子。ローダさんに男と分かってもらえただけ、セイリアよりマシかもしれないが。
「ここはどこの村なの? 奥さん聞きそびれたんだけど」
あ、とセイリアは声を漏らした。考えてもいなかった。シェーンが呆れた表情になり、一瞬いつものシェーンが戻った。
「丸一日何をしてたんだよ」
「庶民の暮らしをお勉強してたのよ」
セイリアは答えてつんとそっぽを向いた。
「まあ、いいよ。今度奥さんに会ったら聞いといて」
珍しくあっさり引いたシェーンに、セイリアはまた顔を向けた。
「あんた、もしかしてまだ毒の影響が抜けてないんじゃない?」
「かもね」
シェーンは暗い声で呟いた。
「まあ、もう慣れたよ。この程度の毒にやられるようじゃ、とっくに死んでる」
今までにも、毒を盛られた経験はあるらしい。何て世界に住んでるんだ、とセイリアは一瞬顔色を無くした。
「……つくづく、大変ね」
「慣れたよ、ほんとに。あと二年も経てば、今の父上の仕事も、全部僕がこなさなきゃいけなくなるし」
シェーンはふっと、天井を見上げた。
「セイリア」
「うん?」
「ありがと」
は、とセイリアはシェーンを凝視した。
「助けてくれて。思えばあれが初仕事みたいなものだったね」
「あ、うん、まあ」
「それから、この村に連れてきてくれたこと」
これにはさらに肝を抜かれて、セイリアはいよいよ唖然とした。
「君が庶民贔屓なわけが分かった気がする。……あったかいね」
セイリアはそれを聞いて目をパチクリさせ、笑った。
「そうでしょ。御互い仕事が忘れられるし」
シェーンは頷いた。やけに素直だ。やっぱり毒の後遺症だろうか。
「ねえ、シェーン」
呼ばれたシェーンは視線をセイリアに向けた。
「シェーンのお母さんて、どんな人なの?」
「……綺麗な人。それ以上は詳しく知らない」
嫁いで以来、身分と気の弱さと、虚弱体質ゆえに王宮の奥深くに隠された母。正妃の子達と隔離され、7歳になった頃急に現れた同母の弟と一緒に、母と会わせてもらえないまま、シェーンはひたすら勉強をして育った。王宮中の大反対を押し切って召し上げられた側妃に、権力を一切与えないために、太子の候補となる王子達は一切、母から遠ざけられたのだ。
一度、御付きの目を盗んで、母の部屋に忍び込んだことがあった。シェーンの姿に驚いた母は、「叱られるでは済まなくなりますよ」と言って息子を追い出した。その時の悲しそうな表情、自分と同じ色をした、苦しそうな瞳、引き止めたい気持ちを抑えているような躊躇が垣間見える手付き、全てが儚く美しかった。それと、ちらりと感じた愛情と、覚えているのはそれだけ。
「……どうして?」
「ローダさんて、母様みたいな人だなと思ったから」
シェーンは少し体を動かした。
「セイリアのお母さんは? どんな人なの?」
「それを言うなら過去形ね。すごく、優しい人だったわよ。それでいてすごく強かった」
「……過去形?」
「あら、言ってなかったっけ? あたし、片親がいないのよ」
シェーンは目を軽く見開いた。少女の語り口は、あくまでも世間話のように、自然なもので。だからこそ、彼女にだって闇があるのだと物語っている。
「……そうだったんだ」
「家臣の情報ぐらい、把握しときなさいよ」
「生憎、子爵家については子爵本人以外の情報で、役に立ちそうなのはなかったからね」
シェーンに言われて、セイリアは思わす「酷っ!私は!?」と叫んだ。
「調べるまでもなく、もう十分知り合ってるじゃないか」
「……それもそうね」
セイリアは諦めて溜め息をついた。
「ローダさんに、この村の位置と王都への行き方を聞いてくるわ。起きれそうだったら夕飯にはおいでよ。あーでも舌の肥えたあんたには不服かな」
「嫌味?」
セイリアは答えず、ただ笑って「じゃあね」と言った。ぱたん、と戸が閉まる音がしたのを聞いて、シェーンはまた深い溜め息をついて目を閉じた。
「ローダさん? いないの?」
小さな家の中を歩き回ったが、ローダの姿は見つからなかった。
「畑に出ちゃったのかしら」
昨日はずっと家にいたのに。仕方がないので、帰ってくるまでシェーンと世間話でもしてようと思った時、
「誰かいませんか」
戸を叩く声がした。セイリアは出るべきかどうか迷ったが、声の調子からして、役人とか強盗とかではなさそうだ。セイリアは戸口へ戻って鍵を開けた。
「はい。残念ながら家の人がいまいませんので……」
セイリアは言葉を途切らせた。
「あ」
御互い知っている顔だった。見慣れた、騎士隊の制服。襲撃の夜に、最初に矢を受けた隣の馬の彼だ。
「あんた、あの時の。なんでここにいるの?」
彼は大いに眉をしかめた。
「あなたたちを追ってきたんです。随分探しました」
それから、鋭い視線をセイリアに向けた。射抜くような、朱色の目。その目に、思わずぎくりとする。
「女の格好をしているのはあなたが女だからですか、それとも変装のつもりですか。あるいは」
セイリアは青ざめた。
「両方、ですか」
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