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可哀想に、アースは押し退けられた。何とも立場の弱い若君だと、見守っていた女中たちは揃って俯いた。
「お嬢様あぁ!!」
自分でも自覚なしに、帰ってきたセイリアに最初に抱き付く権利を、メアリーは手にしていた。セイリアは驚いたように体を強張らせたが、すぐに「どうもどうも、そんなに寂しかったの?」と冗談ぽい調子で言う。
「叱る相手がいなくて、ストレス発散口がないものですから死にそうでしたよぉ」
あまりにズレた答えに、他の女中たちはさらに俯いた。
「まあ、あきれた。アースは相手をしてくれなかったの?」
やはりズレた令嬢の返答に、もう言葉がでない女中たちはとうとう天を仰ぐ。
「姉さん、そんな無茶な……」
ようやっと、常識に適った意見を聞いて、ようやく周りはしゃきっとした。
「ただいま、アース。お父様は?」
「書斎にいるよ。陛下に報告する、今年の収穫報告書作りに追われてる」
もうそんな時期か、とセイリアはしみじみとした。秋はうっかり深まり過ぎて、そろそろ初冬というわけだ。と、しんみり時の儚さを思う間もなく、メアリーの相変わらず健在の強い力に引っ張られ、セイリアは前につんのめった。
「ではお嬢様、早速湯浴みなさいまし。終わったらすぐ着替えて、夕飯を召し上がったらすぐにお休みください」
ぱしっと指をつきつけて、気合いの入れようが伺える。家の主人の二人の子供たちは、いつもよりグレードアップしたメアリーに唖然とした。
「……頑張って、姉さん」
「どーも……」
いやおうなしにメアリーに急き立てられて、セイリアは階段の向こうに消えた。残されたアースは、振っていた手を下ろすのも忘れて呆然としたあと、ふっと微笑んだ。
「また、賑やかになるなぁ……。ううん、やっと賑やかになる、かな」
少なからず、この家はセイリア色に染まっているのだ。
やっぱり家は良い、とセイリアは思った。天蓋のついたベッドに仰向けに転がって、ふう、と溜め息をつく。数週間ぶりに、騎士隊の制服を脱いだ。なんだか周りが静かなのが変な気分だ。出かけていた間、いつも一緒にいたシェーンがいないせいだろうな、と思う。
「あっちは大丈夫かしら……」
戻ってきた途端、他の貴族や侍従たちもいる前で、いきなり弟に斬りかかるなんて。
「王宮の中だったのに……物騒ね」
初めてシェーンの命が狙われている証拠を目の当たりにして、セイリアは少なからずショックだった。よくもこの年まで無事に育ったもんだ。
「お嬢様ぁー? 着替えはお済みですかぁー?」
メアリーがドアの外で叫んだ。
「終わってるわよ、入ってらっしゃい」
入ってきたメアリーは、セイリアを見て大仰に声を上げた。
「まあ、それでは寝間着じゃないですか!」
メアリーは使命感に燃えた表情になる。セイリアはそれを見て、嫌な予感がせり上がって来たのを感じた。案の定、その腕には、部屋着とは言え立派なドレス。
「わわわ、メアリー、帰ってきてしょっぱなからそれはやめてよ!」
思い切り後退るセイリアに対して、メアリーは奮然と胸を張った。
「何をおっしゃいます。お帰りになったばかりだからこそ、ちゃんとした格好をしていただかないと」
逃げようとして襟首をつかまれ、セイリアはじたばたした。
「何を根拠にぃー!」
「根拠なんてあるわけないじゃないですか!」
その答えにセイリアが呆然としているスキに、メアリーはてきぱきとセイリアを着替えさせ始めていた。禁断症状ってこういうのを言うのね。ましてやあたしが年中駆け回ってたせいで、仕事には事欠かなかったはずだし。それでいきなり仕事がない状態が何週間も続けば、禁断症状がでるのも頷け……るだなんて、理解を示してる場合じゃない!
「どうせ家族だけじゃない! 身内だけじゃない! 着飾らなくたって良い理由が揃ってるじゃないの!」
突然、メアリーがキッとなった。
「私の、お嬢様を着飾らせるという楽しみを取り上げるおつもりですか!?」
あまりの剣幕と的の外れた答えに、セイリアは閉口した。
「……メアリー、なるべく、もっとまともな別の楽しみを見つけてちょうだい」
結構切実そうに、子爵令嬢の言葉は響いた。
予想通りに響いてきた、いつもの姉と侍女の声に、アースは人知れず微笑んだ。人付き合いが嫌いであまり従者もつけないため、彼は自由に自分だけの空間を持てる。そういう意味では、セイリアに引けを取らず自由の身であることは確かな少年だった。
「相変わらずだなぁ」
彼はパタンと本を閉じる。
「さて、全冊制覇、と。5回目だけど」
子爵は四番目の爵位、爵位の中だけで見れば身分は低い。それでも、せいぜい普通より大きいだけの館しか持たない小貴族もいるのだから、まごうことなき大貴族の一員であることは確かだった。
その子爵家の蔵書量が少ないはずがないのだが、アースは記憶に有る限り、今手にしている本を読み終えた時点で、膨大な量のこの図書を全て読み終えるという快挙を、五回はやってのけたことになるのだ。伊達に量をこなしてはいない。今では辞書並みの厚さの本を2時間で制覇できるほどの速読術を身に付けた。しかも、生来の記憶力でほぼ暗記している。平生おとなしく内気な彼の、隠れた才能であった。
「新しい本も欲しいんだけど。たまには王立図書館にでも行ってみようかな……姉さんに頼んで」
しかし、外には彼の苦手な人付き合いがごまんと渦を巻いている。その対人恐怖症を直さないと将来困るわよ、と姉に怒鳴られたことを、ぼんやりと思い出した。
「考えてないわけじゃ、ないんだけどな……」
家柄だけは確固たるものだから、王族子弟の勉強のお相手に、なんて話もなかったわけではない。もちろん大きくなれば否応なく政治舞台に引き出され、後込みするほどに嫌う人付き合いを嫌というほどやらされることになるのだろう。
アースも馬鹿ではない。むしろ本人すら気付かないほど、稀に見る頭の回転の速さを持っていた。
「今のうちから慣れなきゃ、だめだよね……」
姉が異国から帰ってきた夜、子爵家の若君は、密かに実力試しを決意した。
久々の家での夕食は、久々の豪勢なご馳走だった。さんざん娘のことで頭を悩まし、そのせいで耳より前の髪をほどんど落としてしまった子爵だが、その娘がいない日々は、不本意にも寂しかったらしい。お帰りなさいパーティーだと言ってご馳走を揃え、セイリアを隣に座らせたがった。久々に目にする、お腹を気の行くまで満たしてくれそうな夕食を前に、セイリアはほうっと溜め息をついた。
「これを見てると、貴族も悪くないって思えるわ」
「食べ物だけですか」
「食べ物だけよ」
非難の目で睨むメアリーを完全に無視して、セイリアはウキウキとフォークに手を延ばした。アースも席につく。クレオも文字通り猫っ可愛がりされ、テーブルから遠くない場所で魚を与えられた。
ようやく双子の弟と邪魔される事なく喋れる、となると、セイリアは怒濤のようにお土産話を始めた。
「クロイツェルの皇女は怖い人だったわよ。妹さんは可愛かったけどね。まあ、散々振り回されたことは確かだけど」
セイリアはふと、帰り際に渡されたオリーブの枝を思い出した。花言葉、平和。
夕食が終わったらすぐにでも、庭に植えに行こうと思った。
「そうそう、帰り途中で賊に襲われたのよ。シェーンが斬られちゃって、あたしがシェーンをさらってがむしゃらに逃げたら、見事に皆とはぐれちゃって」
アースが顔をあげた。
「襲われたの? 賊に?」
「そうよ。音を聞いたから間違いないの。互いに連絡を取り合うのに使う、矢の音よ」
セイリアはアースの顔を覗き込んだ。
「どうかしたの?」
「だって、おかしすぎるよ。非公式の訪問とはいえ、王太子に相応しいほどの人数は取り揃えていたんでしょ?」
「まあね。仰々しいくらいに」
「それを、わざわざ狙う賊がいるなんて信じられない」
「でも、実際にいたのよ」
セイリアは眉をひそめた。
「まさか、わざわざ狙ってきたとでもいいたいの?」
「一番しっくりくる答えじゃない?」
さらりと答えたアースはスープを口に運んだ。子爵がセイリアに叩き込もうとして失敗に終わった、優美な動作で。
「賊を使うのが一番安全だからね。取締りが難しいし、襲撃のプロだし。もし僕にも誰か始末したい人間がいて、その人が森を通るって分かってたら、同じ方法を使うな」
「ア、アース、そんな物騒なこと……」
子爵が青くなった隣りで、セイリアが平然と言った。
「お父様、アースに誰かを始末しようなんて考える勇気はないわ」
弟からの軽い非難の視線をやり過ごしながら、セイリアは少し考え込んだ。やけにつじつまが合う気がするのはなぜだろう。カーティス王子のせいだと気付くのに時間はかからなかった。
「そう、今日ね、カーティスって王子が、帰ってきたばかりのシェーンに斬りかかったのよ」
ぶっと吹き出したのは子爵の方で、アースは落ち着いていた。
「カ、カーティス王子がか?」
「よくあることだね。王族同士の戦いだ」
セイリアは知ったふうな口をきくアースを軽く睨んだ。
「王宮にきたこともないくせに」
「本で読んだから分かる」
全ての知識を本に頼るのが、彼の危ないところなのだ。
「そのカーティス王子が、シェーン王子に賊を仕掛けたって、姉さんは思ってるの?」
「わかんない」
セイリアは正直に言った。
「あの子ったら、敵が大勢い過ぎるんだもの。対シェーン勢力の最右翼は王兄さまだって聞いたけど」
父はそろそろ、話の展開の早さについて行けなくなっていた。
「王兄?」
「陛下のお兄さんよ。弟に王位を取られた恨みじゃないかって。それに、シェーンは……」
セイリアは口をつぐんだ。側妃の子であることを、アースに言ってもいいのだろうか。父は知っているだろうけれど。
「シェーン王子はなに?」
アースに急かされ、セイリアは声をひそめた。
「正妃の子じゃないから。立太子に反対する人が多いの」
「こ、こら、セイリア」
あたふたした父に向かって、セイリアは一喝した。
「どうせアースだっていずれは参政するのよ。知ってて当然よ」
アースは手を止めて、目を白黒させた。
「側妃の子……そりゃ、難儀な立場だ」
でしょうでしょう、とセイリアは頷いた。
「あんなぐちゃぐちゃな所で育ったから、ひねくれた性格になるんだわ」
「ひねくれっ……」
相変わらずの姉の言い様に、弟は苦笑いする。注意しても無駄だということは、まだ書庫の本を読みあさり始めたばかりの頃くらい昔から知っていた。
「そうだ、姉さん。クロイツェルがヌーヴェルバーグと戦争を始めたって本当?」
王家の内情は、まだ表面にまで浮き出て混乱を招くまでに至っていない。ある意味、日常化したからに過ぎないのではあるが。目下の課題は外交のほうだ、とアースは心得ていた。
「本当よ。ヌーヴェルバーグがクロイツェルを挟んだ反対側で良かった。じゃなきゃ、オーカストにも飛び火してたわね」
アースは考え込んだ。目まぐるしく、頭の中で組み立てられていく考え。
「姉さん」
黙ってしまった弟を訝りながらも、あまり気にしてもいなかったセイリアは、口の中のものを飲み込んで顔を上げた。
「ん?」
「明日、王宮に連れてって。こっそりシェーン王子に会いたい」
万年城に閉じこもって本を読んでいた、陽に当たらないゆえの青白い肌の若君がそう言い出したものだから、子爵とセイリアは目をひんむいて驚いた。
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