Special feelings
特別な気持ち

 

 朝早くから、セイリアは馬を飛ばした。相変わらずマントをかぶったアースがセイリアの背中にへばり付いている。乗馬経験が皆無のくせに、よく辛抱しているものだ。一方のセイリアは、人目を憚るためとはいえ、朝早い出発に半分寝ぼけたままだった。

 馬を降りて門番に預け、週3日の忍び込みは続いていた。アースもさすがに慣れてきたようで、もうびくびくはしていなかった。
 セイリアは部屋の中にいても外にいても退屈には変わりないと思って、扉の前をぶらぶらしていた。まあ部屋の中にいてシェーンのすぐ傍にいなければならない程、危ないわけではないだろう。結局、クロイツェルから帰ってきたあの日以来、セイリアが剣を抜く羽目になるような事件は起きていなかったし。
 シェーンの部屋の隣りは待合室になっていて、フカフカの椅子が置いてあり、大きな絵画が飾られていた。多分、先代の王の肖像画だろう。目許の感じがシェーンに似ていた。セイリアは部屋の中を歩き回った。本棚のとなりには大陸の地図が貼られている。今話題の北の島国ヌーヴェルバーグは、地図の一番上に描かれていた。海峡を挟んで、大国クロイツェル。大陸のうちの五分の一程の領土を占めている。そのクロイツェルの隣りでへばりつくように、オーカストがくっついていた。
 改めて見てみると、やっぱりちっちゃい。よくもまあクロイツェルみたいな大国と同盟を結べたものだ。オーカストも比較的北の方に位置していて、西の大部分は大海に面している。唯一の強みと言っていいのはこの海だ。それも島国のヌーヴェルバーグには劣るものであるが、海が暖かい分ヌーヴェルバーグとはまた違った海の幸がとれ、オーカストの貴重な財源の一つになっているのだ。セイリアとてこれくらいの予備知識はさすがに持っていた。
 シェーンに言ったらまた「君でも知ってるんだ」とからかわれるかな、と思っていたら、ノックも無しに待合室の戸が開いた。
 驚いてみてみると、レナードだった。
「あ、レン」
 レナードはセイリアの姿にしばし目を瞬いた。
「お久しぶり」
 セイリアがそう言って手をひらひら振ると、レナードは仏頂面を少しだけ歪めて笑い、会釈した。
「お久しぶりです。シェーン王子はお取り込み中ですか」
「ま、ね。うちの弟と」
「本物のアース殿とですか」
「……あたしが偽者みたいな言い方やめてよ」
「偽者では?」
「護衛騎士としてのアースは、あたしが本物」
 ぴしっと人差し指を立てたセイリアに、レナードは苦笑した。
「相変わらずですね」
 ふふ、とセイリアは笑った。
「そう言えば、なんでここにいるの?シェーンが人払いをしたはずなのに」
 レナードはまた仏頂面に戻った。一応これがきょとんとした顔らしい。
「そうなのですか?」
「うん。おかしいなぁ、なんでレンは入ってこれたんだろう」
「……ハウエル大尉がシェーン王子の信頼を得ているからでしょう」
 セイリアはきょとんとした。レナードのそれと違って分かりやすい表情だ。
「大尉とあなたが、どう関係あるのよ」
「聞いていませんでしたか」
「何を?」
「俺は大尉の従者になったんです」
「……はい?」
「従者ですよ」
「従者? 大尉の? レンが?」
「……そんなに意外ですか」
「うん」
「……即答ですね」
 レナードは少し苦笑した。
「だって、あんたと大尉に接点無いじゃない」
「上のお取り決めですから。先日迷わずあなたたちを追いかけた機転と、王子を守り切ったことに対する評価とか」
「ああ……」
 実際はシェーンを守ると言っても解毒作業がほとんどで、しかもそれもローダさん一人がやったことであるが、まあここはあやかったと思っておこう。
「そういうことね。でも、シェーンに何の用なの?」
「新任のご挨拶ですよ」
「あ、なるほど」
 セイリアはようやく納得した。
「ヴェルハント殿は従者経験がおありですか」
「ないわよ。経験する間もなく、シェーンの護衛に大抜擢だったもの」
「そうですか」
 レナードは少し部屋の中を見渡して聞いた。
「一緒にここで待っていてもよろしいでしょうか」
「いいけど、あの子達、かなり時間がかかると思うわよ。さっき入っていったばかりだもの」
 レナードは少し黙った。仏頂面からは何も読み取れない。
「わかりました。シェーン王子が出ていらしたら、後日出直しますと伝えてくれますか」
 セイリアは目を丸くし、手を左右に振った。
「ダメダメ、そんなことで時間を無駄にはさせないわ。待ってて、シェーンを呼んでくる」
「あっ……ヴェルハント殿」
 レナードが止める間もなく、セイリアはトントンと戸を叩いた。前はお構いなしに戸を開けていたのだから、ノックするようになっただけ成長したと見える。少し経ってから、シェーンは顔を出した。
「何? どうしたの?」
「お客が見えてるわよ。ちょっと時間がないみたいなんだけど」
 シェーンはレナードに目を止め、眉をひそめた。レナードは少し気まずそうに頭を下げた。
「ご挨拶に参りました」
 部屋の奥で、アースが声をあげた。
「姉……じゃない、アース、誰なの?」
 セイリアも部屋の奥に向かって声を掛けた。
「大丈夫よ、アース。事情を知ってる人だから」
 知らない人が聞くと奇妙奇天烈な会話だろう。
「ホント?」
 アースは少し安心したのか、戸の傍まで来た。
「ホント、ホント。一緒に道に迷ってくれた人よ」
「何かずれてないか、その言い方……」
 シェーンがつっこんだ。
「ともかく、シェーン、お客を待たせちゃ駄目よ。人がせっかく来てくれたんだからさ」
 シェーンはセイリアに向かって不快そうな顔をした。
「……そのためにわざわざ?」
 セイリアは挑むように胸を張った。
「いけない?」
「いけないとかそういうことじゃなくて」
 シェーンは声を下げた。
「僕より、彼優先か?」
 は、と目を丸くしたのはセイリアだけではなかった。アースもシェーンを見つめた。
「だって、あんた達の話し合いは長引くでしょ。レンを優先した方がいいじゃない?」
「そういうことじゃない」
 アースはこの押し問答の意味を唯一理解して、穴が開くほどシェーンを見つめた。……ええと、つまり王子様は姉さんを。一方、その手のことに滅法鈍いセイリアはわけが分からず困惑していた。シェーンは言っても無駄だと判断したのか、溜め息をついて手を振った。
「いいよ、いいよ。それで、レナード。挨拶って、大尉の従者になったことで?」
 レナードは軽く頭を下げた。
「お聞き及びで」
 シェーンは頷いた。
「わざわざご苦労」
 すっかり王子の顔になっている。
「時間がないなら、手早く済まそう。大尉から言づてがあるんじゃないか?」
「はい」
「じゃ、こっちの部屋へ。アース、少しの間、出ててくれるかな。すぐ終わるから」
 アースはそろそろと扉の間をすり抜け、堅い顔でセイリアの後ろに隠れるように動いた。対人恐怖症が発症したらしい。レナードは姉弟に一礼すると、シェーンと共に部屋に消えた。


 戸が閉まると、アースは弾かれたようにセイリアの肩を掴んだ。
「姉さん、どういうこと? 王太子妃発言復活?」
「はあ?」
 セイリアは心底驚いた顔をした。
「何言ってんのよ。いくら貴族ってったって、王太子妃になるならせめて侯爵以上の地位の家じゃないと無理でしょ」
 アースはがくりと頭を垂れた。だめだ、鈍すぎる。
 しかし、はっと気付いてアースは顔を上げた。
「待って……姉さん、もし姉さんが侯爵以上の地位の家に生まれてたら、シェーン王子の后になりたかったの?」
 え、とセイリアは目を見開いてアースを見つめた。緑色の瞳は、よく見ている人だけに分かるくらい、アースのそれより鮮やかで濃い。
「姉さん?」
 アースは固まってしまったセイリアに、訝しそうに声を掛けた。セイリアは我に返ると、ぼそぼそと呟いた。
「王太子妃……あたしがシェーンの后?」
 セイリアはその言葉を理解して、突然ギョッとした。
「后って、奥さん? 妻? 女房?」
「どれも同じだけど……」
 アースは姉の様子がおかしいのに気付いて少し身を引いた。
「あたしが、シェーンの?」
「ち、違うならいいんだけど」
 ……わかんない。セイリアは頭を抱えた。胸騒ぎを覚えた。
「ごめん、姉さん。あんまり気にしないで。ただ、シェーン王子がなんだか姉さんを気にしてるみたいだったから、気になって……」
「シェーンが、あたしを? 王太子妃候補として?」
「いや、そういう意味じゃないけどっ……」
 誰かに想われること。誰かを想うこと。
 それは、どういうこと?
「ごめん、アース、少し考えさせて」
 セイリアは目まいがして、ソファに崩れ落ちた。
 前髪をかき上げて、床を見つめて。
 シェーン。シェーン。一人の名前だけが頭に響くのはなぜ。
 突然、一人の顔しか頭に浮かばなくなるのはなぜ。

 こんなに胸が熱いのは、なぜ――

 王太子妃という単語がこの上なく魅力的に聞こえた。

 ねえ、お母様、とセイリアは亡き母を思った。

 もしかして、お母様は、お父様に出会って同じ気持ちを抱いてた――




最終改訂日 2005.10.12