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オーディエン公爵は鬱々としていた。大切な一人娘の嫁ぎ先として王太子を望んだのはつい数日前のこと。国王は一応頷いてくれた。しかしそれは公爵から見てもどこか曖昧な返事だったのだ。
そして肝腎の娘もどうやら想う人がいるようだった。相手はたぶん、太子の護衛を勤める子爵家の息子だろう。縁談のことを聞かされた娘は真っ青になり、その日のうちに屋敷から姿を消した。
家出をするほど思い詰めているとは思わなかった公爵は完全に動揺した。親に逆らうような娘ではなかったはずだ。家名第一という教育をしたはずだった。自身の恋情を貫こうとするほど非常識ではなかったはずだ。
一方でしかし、とも思う。自分自身、公爵は一度決めたら突っ走る性格だった。娘の中にも、激しい一面があるのかもしれない。しかし、たった一人で貴族の令嬢が飛び出していくなんて危なすぎる。
家名にこだわり過ぎただろうか、と思う。ここまで娘を追い詰めてまで、通すべき縁談だろうかと迷っていた。何より、娘の安否が気になって、いても立ってもいられなかった。自分が切羽詰まっていることが自分自身よく分かっていた。
コンコンと戸を叩く音がして、「父上」と感情のない声がする。義理の息子の声だと気付いて公爵はいすから跳ね起きた。そもそも、顔を見るのも嫌だったはずの息子に頼ること自体、いつもの公爵なら信じられないことだ。それも、従者としてついているオストール大尉の元から呼び戻してまで。公爵は急いで召使に戸を開けさせた。
「レナード、セレスティアは?」
無表情のまま、青年と少年の間といった年頃の彼は首を横に振る。
「ですが、シェーン王子がお見えです」
言われて公爵は瞠目した。王太子シェーン、ということは例の縁談の話だろうか。
「すぐ行くと伝えてくれ」
公爵は言い、急いで服を整えて客間へ向かった。向かいながら、娘の家出をどう説明すれば良いのだろうと焦った。
あの王子のことだから、いくら隠したって既にこのことの情報は掴んでいるのだろう。ばれていないわけがない。もしかしたらそれで咎めに来たのだろうかとも思った。
公爵は召使の前触れもそこそこに戸を開けた。日も落ちた客間の中、ぼんやりと弱々しい光を放つろうそくの下、王子は出されたワインのグラスを手に持っていた。物思いに沈んだ風の、憂いを帯びた繊細な横顔が美しい。
しかし彼が公爵に気付いて顔を上げた時には憂いは消えて、代わりに鋭い表情を浮かべていた。この、瞬きの一瞬で気持ちを切り換えることのできる、対応の速さがすごいと公爵は思う。王子は立ち上がった。
「オーディエン公爵。先触れが聞こえなかったが……」
「申し訳ありません、急いで参りましたので」
いや、と王子は言った。
「突然訪ねてきてしまって、さぞ驚かせただろうね」
あくまで自分の方が立場が上だと主張する高圧さと、気遣いとが絶妙に混じった声色だ。公爵は恭しく礼をした。
「とんでもございません、殿下。急時に出会っても対応できないようでは、我々貴族の名折れでございます」
王子は少し、緊張を解いたような笑みを見せた。おや、と公爵は思う。以前はあまり見せなかった表情だ。
王子は再び座った。公爵も倣う。
「今日来たのは、例の縁談についてだ」
王子は直球でそう来た。
「父上は僕に判断を任せると言った」
「……はい」
王子はゆっくりとグラスを回して、揺れるワインを見つめている。
「本題に入る前に聞く。あなたはどうして、セレスティア嬢を僕に、と考えた?」
公爵は戸惑った。今更だが、とても自己中心的な理由だった気がする。
「……殿下は国の将来を担うに足る方だと思ったからです。家柄も釣り合います」
言うのは憚られるべきかもしれない、と思ったが、公爵は言った。
「それに、オーディエン公爵家という後ろ盾は、殿下にとっても心強いはずです」
王子はまたワインを一口飲み、脇の小机に置いた。穏やかでありながら含みを持たせた声で問う。
「セレスティア嬢は今どこにいるのか、分かったのか?」
公爵は内心肩を落とした。やっぱり知っていたのかと思うと、恥ずかしくてたまらない。
「いいえ……礼儀修行に出した修道院にも問い合わせましたが、全く手掛かりは掴めません」
王子は視線を上げ、頬杖をついた。
「公爵、僕はいまだにセレスティア嬢のことを良く知らないのでね。あなたはセレスティア嬢を国母として差し出す自信と、そして覚悟はおありなのか」
公爵は急いで言った。
「自信はあります。親から見ても良い娘です。従順で、かといって何の信念もないわけではなく……」
王子の真っ直ぐな目に気付いて、公爵は思わず口をつぐんだ。どんなに良い娘だろうと、他の男を想うために家出をした娘なのだ。言い訳も何もできないその事実を、王子の目は突き付けている気がした。
「公爵」
王子はゆっくり言った。
「知っての通り、僕の立場はとても不安定だ。その僕が太子でいるために、いつの時代にもあった王家の闇は余計に深くなっている。あなたはセレスティア嬢が、その闇に耐え得る力があると、自信を持って言える?」
公爵は言葉に詰まった。王子の言葉は真剣だった。こちらが戸惑い、動揺するには十分すぎるほどの真剣さだった。セレスティアはどうなのだろう、と考える。今まで公爵は、娘の強い部分を信じて、王家の闇とやらにも上手く立ち向かえるだろうと思っていた。しかし、見た目通りに脆いところも多い子だ。もしかして王家の闇を甘く見過ぎていたのだろうか。
揺らいだ公爵に、王子はさらに言った。
「はっきり言ってしまえば、公爵、僕にはそうは見えない。何度か夜会で会った限りでは、確かに教養深くて礼儀正しい、誰に見せても恥ずかしくないような令嬢だった。けれど、結婚となると話は違ってくる」
ぐさりとくる言葉だったが、太子相手に言い返すわけにもいかない。王子は肘掛けに腕を置いて足を組んだ。
「僕の一生の伴侶になる人だ。王家の闇を理解し、受け入れて、なお僕を支えてくれる人であってほしい。闇なんて吹き飛ばせるほどの、国の母となっても倒れないだけのパワーがある人であってほしいんだ。太子との婚約を前に逃げ出す人に、そういう力があるのか、疑問に思う」
きつい物言いだったが、頷かずにはいられない何かがあった。
「これが僕のシェーンとして、そして王太子としての本音だ。あなたはセレスティア嬢がそういう人物だと太鼓判を押せる?」
公爵は何も言えない。既に首を横に振ることしかできない気分だった。
よく考えれば愛娘をけちょんけちょんに言われたわけだが、怒りを沸かせる気力もない。悔しさと恥ずかしさで黙っているだけだった。
王子は軽く息をついて、またワインのグラスに指を絡ませた。そのまま口に運んで優雅に飲み干す。ワイングラスを置くと、彼はごく穏やかに言った。
「公爵、この婚約の件はよくよく考え直したほうがよいように見えるのだけれど」
公爵は認めるしかなかった。
「はい……申し訳ありません。そのようなお心も察せずに娘を勧めるなど、なんと出過ぎた真似をしたことか」
「いや、僕こそ、最も信頼する人の一人に恥をかかせることになってしまった。話を聞いてくれて、礼を言う」
その一言で、公爵は少し慰められた。
しかし、これでふりだしにもどってしまったな、とぼんやりと思う。他の婿候補を眼中に入れていなかったから、なんだか体が空っぽになった気分だった。
それからふと気がついて、遠慮がちに王子に聞いた。
「殿下、この上不躾かと存じますが、よろしいのですか? ハーストン公爵も以前より動きが多くなってきたというこの時期に、頼れる姻戚も持たずに」
大貴族の場合、婚姻によって結ばれた二家族というのは大きな力を発揮する。
ただでさえ立場の不安定な王子だ。しかし、彼は微笑みを見せた。いつもの、太子の顔だった。
「自分の立場ぐらい、自分で安定させる。僕の治世なんだ、自分の力で始めてみせるさ」
「そうですね……」
公爵は頷いた。
「では、申し訳ありませんが、セレスティアとの婚約は白紙に戻していただきとうございます。……私も考えが浅かったようです」
「いや、娘のことを思ってのことだろう。気持ちは分かる」
王子は独り言のように言った。
「愛する者のために、多少短絡思考になることはよくあることだ」
そう、自分もとても短絡思考だ。
シェーンは帰りの馬車でそう考えた。セレスティア嬢との結婚が嫌なら、娘の家出で動揺している公爵につけこんで、婚約を破棄させればいいこと。幸いまだ未発表だし、情報を掴んでいる人間はほとんどいないと、シェーンはすでに調べがついていた。誘導する言葉も選んであったし、公爵はあっさり乗ってくれた。もちろん半分以上は本心を混ぜたが、既に妃候補に上がっている別の娘がいるなど、公爵は想像もつかないだろう。
すっかり暗くなった窓の外に、雪が舞っている。シェーンはふっと笑った。本当に自分は短絡思考だった。セイリアの信頼と、立場の安定と、セイリアの信頼を取るのを迷わず選んだ。
まあ、いい。本当に自分の力で立場を固めるつもりではあったのだし。
問題は、とシェーンは考えた。
今の超がつくほど気まずいセイリアとの関係を、どう修復するかだ。
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