その知らせは国中を瞬く間に駆け巡った。いくらか予想はされたものの、唐突に訪れるとは思われていなかった出来事。ある者はにんまりと笑み、ある者は狼狽し落胆し、ある者は怒り狂い、ある者は淡々と事実を受け止め、ある者は勝利の雄叫びをあげた。
第三王子シェーン、王太子の位を辞退。
当然、実態は仮王に位を剥奪されたのだろうと誰もが予想できた。代わりに太子に据えられたのは第四王子のアーネストだった。指名された本人は驚き、拒んだらしいが、結局王兄に何か言われて呑んだらしく、そういうことになった。八年後、アーネスト王子が十八歳になる前までに国王の死亡が確認されれば完全に王権はハーストン公爵のものになるだろう。そして、自分の家系に王位を継がせることができることになる。
そして、現実がこのシナリオを進むだろうと誰もが予想した。
その上に、同時に流れた噂。それは、王子が信頼していた護衛騎士が、騎士隊を除隊になったということ。しかしなぜか、引き続きシェーン王子の側にはいるらしいということだった。
セイリアはメアリーに命じて色々と手回しを頼んでいたし、あとは任せよう、と決めていた。シェーンの話を聞いて、セイリアはちゃんと納得していた。騎士を辞めたことも、シェーンが自分の名誉を守ることを選んだことも、そんなシェーンに自分はどこまでも付いていくと決めたことも。
だからこうして、彼と一緒にいくことを選んだ。服はアースのを借りた。騎士隊の制服は返していないが、着て行くわけにはいかない。ドレスを着てありのままの令嬢の姿で行けと騒いだメアリーとの大論争をなんとか制して、行動しやすい男装を勝ち取った。これで、シェーンの母に会いに行く。
ため息をつき、鏡の中の自分を見つめて、セイリアは「大丈夫」と呟いた。
「シェーンの側にいられるものね。それに、あたしはあたし。茨の道でも壁があっても、ぶった切って蹴倒して進むだけよ」
::::::::::::::::::::::::::::::::
「交換条件に、伯父上は僕の太子位が欲しいのですね」
シェーンの確認の質問に、王兄はただ、笑みを崩さずにシェーンを見返した。
「そうだといったら、お前はなんと答えるのだ」
「回りくどいことをなさるものだ、と言います」
王兄は意外そうな顔をした。
「ではなんだ、回りくどいことをせずともお前は太子の位を手放してもいいと思っているのか」
「ええ」
シェーンは、にやり、と笑った。
「僕が欲しいのは、太子の位ではありませんから」
「……シェーン?」
セイリアは思わずシェーンに呼びかけた。太子の位は欲しくない? 自分にできることはそれくらいだ、それが存在意義なんだと言っていたのに。なぜ、いらないなどと断言するのだろう。
「ですから、伯父上が僕の安全と自由、それに僕の護衛から手を引くことを約束してくだされば、伯父上の一番邪魔な位を空にして差し上げましょう」
王兄はあからさまに警戒する顔をした。
「何を企んでいる」
「企んでいません。交換条件を言ったまでです。僕にとって大切なもの、目的は他にあります。譲れないものは譲りません。逆に言えば、譲れるものは、譲れないものを守るために譲ります」
セイリアはシェーンを止めかけたが、結局口をつぐんでシェーンのやることを見ていることにした。そう、シェーンは譲れないものは譲らない。きっと別の考えがあるはずなのだ。シェーンを信じてただついていく。自分にできることはそれだ。
自分が反抗して事が解決するならそうする。ひと暴れしてシェーンに有利に働くならそうする。けれど、シェーンはそれを望んでいないだろう。譲らないだろう。だから、黙って見守る。
王兄はしばらく考えていたが、疑わしそうな顔をしつつ、言った。
「よかろう。交換条件をのもう。ただし、お前のの自由は約束しかねる」
シェーンはさすがに不満そうな顔をした。
「それでは僕の条件を満たさない。全て聞き入れられないのなら条件は撤回します」
「まあ、待て、シェーン。お互い利害が一致しているのに放り出すな」
王兄は言い、ちらりとセイリアを見た。
「お前は野放しにしておくにはわたしにとって危険すぎるのでね。……お前の母親が嫁いだ際の記録はお前がもっているだろう」
シェーンは一瞬黙ったが、頷いた。
「はい」
「他にもお前が持っている書類、全部出してもらおう。それでお前には監視付で自由を与える。どうだ?」
監視付きって、自由じゃないじゃないかとセイリアはつっこみたかった。口を挟みたかったが耐える。シェーンは考えている。そして、口を開いた。
「全ての書類、というのは承諾しかねます。何関連の書類が欲しいのかをおっしゃってください」
「全部だ」
「聞けません」
「では条件撤回するぞ」
「利害は一致しているのではなかったのですか」
シェーンの逆襲だ。王兄はむっとした顔をしたが、最終的にシェーンの条件をのんだ。
「よかろう。忘れるな、シェーン。利害は一致しているはずだ。あくまで交換条件だからな」
「わかっていますよ。こちらからも重々、同じことを申し上げます。……ゆめゆめ、違われることのないように」
こうして交渉は終わった。
真正面からの対決を終えて、シェーンはセイリアを引き連れて国王執務室を後にした。既に外は真っ暗、雪までちらついていた。セイリアは何か言いたかったのだが、シェーンに話しかけるタイミングがつかめなかった。その時、空腹のせいで、黙って歩いていたセイリアのお腹はぐぅと間抜けな音を立てて緊張感を台なしにした。
「う……」
呻いたセイリアを振り返り、シェーンは目を瞬くとプッと吹き出した。セイリアは頬を真っ赤にして叫んだ。
「悪かったわね、緊張感のない人間で。これは自然現象よ、鳴らしたくてなったんじゃないんだから!」
「いや、でも、タイミングが君らしいなと思って」
「余計なお世話よ! そもそも、笑ってる場合じゃないわ」
セイリアはもう鳴るなと祈りながら自分のお腹を押さえて言った。
「ねえ、別の目的ってなに?」
「そりゃあ、決まってるだろう。この国を動かす地位だよ」
セイリアは目を瞬いた。シェーンは続ける。
「つまり、僕がなりたいのは王太子じゃない。王そのもの、又はそれに準ずる、国を動かせる地位。太子はただの足掛かりだからね。……やっぱりね、諦められないよ。僕は王になるためだけにこの7年間を過ごしてきた。それに、仕事は嫌いじゃない」
微笑んだシェーンの表情は穏やかで、そして強かった。
「でも、今ここでむりやり近道をしても、きっとつまづくだけだ。だから回り道をするだけ。目的地を諦めたわけじゃない」
「急がば回れってやつね」
セイリアが言うとシェーンはにやっとした。
「その通り。……それに」
と、シェーンは言葉を続けた。笑みは引っ込んで、言うのが恥ずかしいというようにそっぽを向く。あ、これは、来るなと思ってセイリアも身構えた。
「その時は君が隣りで支えていて欲しい。もちろん、君らしく堂々といられるような環境で。どちらも僕は譲れない。だから、どちらも譲らない」
恥ずかしかったが、セイリアはごまかしたり茶化したり、目をそらしたりせずに頷いた。シェーンの意図が分かった。その強さが、すごく好きだと思った。シェーンは強い。月のように静かだけれど、太陽よりも激しい人。だから、だから。
「分かった。でも、あたしにも手伝わせてね。シェーンがトップに返り咲けるように全力で頑張るから」
そして、にっこりと笑う。
「そういうわけなら、すぐに手回しを始めないとね。あたし、隊長に話をして来る。味方につけておいて損はないでしょ」
「うん」
シェーンは頷いた。そして、迷う素振りをちらりと見せた後、言った。
「それと、母上にも会いに行こうと思う。……君も、一緒に来る?」
::::::::::::::::::::::::::::::::
随分と噂が広まるのは速いものだ、とセイリアは思う。馬に揺られながら、最近温くなり始めた空気に白く息を吐き出して、薄くなった雪の積もりを眺めて、セイリアはぼんやりと、母が見ていたら何と言っただろうと考えた。自分の信じる道をいけ。そう言うはずだ。だから、これでいいのよね、お母さま……。
王宮が見えて来る。門を入り、馬を降りて馬を預けようとしたら、馬丁に聞かれた。
「ヴェルハント殿、護衛はお辞めになったのでは」
「いいえ」
屈託ない調子で答えてセイリアは顔なじみの彼を見上げた。
「辞めたのは騎士です。シェーンのそばには居続けます」
馬丁はわずかに微笑んで、そのままセイリアの愛馬を連れていった。
よし、と気合を入れてセイリアは正面階段を上がり、シェーンの寝室に急いだ。待っていた彼と一緒に、王宮の奥深くへと入って行く。シェーンの足取りはしっかりしていて、よどみがなかった。その足運びに合わせるようにしてセイリアも歩いて行く。
シェーンが到着すると、扉番をしていた者は驚いたようだった。
「シェーン王子……」
「母上に、お取り次ぎを」
「は、はい」
慌てた様子で扉を叩き、顔を出した侍女に事情を説明した。侍女も驚いた顔で中に引っ込んだが、すぐに戻って来ると、お入りくださいませ、と言った。
シェーンの後ろについて行くと、シェーンの部屋よりは質素な、むしろセイリアの部屋と同じくらいのサイズの、妃には少々不似合いな部屋に案内された。カレン側妃は立って二人を出迎えた。彼女を見た瞬間、シェーンの顔に何とも言えない表情が浮かぶ。
「……母上」
そう言って、シェーンは頭を下げた。カレン側妃は慌てる。
「やめて、シェーン。頭を下げないで」
「いいえ、僕はもう太子じゃありません。どうか、下げさせてください」
側妃は戸惑うように視線を泳がせた。セイリアもシェーンに倣い、頭を下げた。
再び顔を上げたシェーンは、微笑んでいた。
「お久しぶりです、母上」
「ええ……ええ、久しぶり、シェーン。そちらは護衛騎士の……」
「セイリア・ヴェルハントです。もう騎士ではありませんけれど」
セイリアも挨拶をした。カレン側妃はそっと手を伸ばすと、セイリアの髪をなでた。セイリアはドキリとする。
(お母様……)
実母に撫でられた気分だった。カレン側妃は呟いた。
「可哀想に……髪を切ってしまって」
「あたしが自分でやったことだから、良いんです」
セイリアは少し恥ずかしくて、小さめの声で言った。
「しばらくはかつらのご厄介になるしかありませんけれど、すぐに伸びます」
「そうね……髪はまた伸ばせば良いものね。それにしても、短いのも似合っているわ」
セイリアは笑った。髪については色んな人から嘆かれてばかりいたのでちょっと嬉しかった。
「ありがとうございます」
「それで、母上。本題なのですが」
シェーンが改まってそう切り出した。カレン側妃は頷き、座って、と二人を促す。座り直すと、シェーンはすっと実の母を見据えて言った。
「父上のことについてです」
ぴくりと側妃の肩が震えたのをセイリアは見逃さなかった。ショックでないわけがないのだが。案の定、側妃は唇を噛み締めている。
「手掛かりがありません。母上、父上は出掛ける前に、母上に何かを伝えていきませんでしたか。父上の行方につながるようなこと、狙われる心当たり、何かを」
側妃は静かに首を振った。今にも消えてしまいそうなほど、弱々しい動作だった、
「……わからないわ」
「そうですか……」
シェーンも視線を落とす。そしてんぽつぽつと話し始めた。それは王子としての声ではなくて、心を許した友人にだけ使うような声色だった。
「母上、伯父上が父上に何かをしたのだと僕は推測をつけています。伯父上はヌーヴェルバーグと何かしらのつながりがあるようでした。そしてヌーヴェルバーグは何かしらの情報を手に入れてクロイツェルを脅し、戦争を引き起こしたと思っています」
はた目にも分かるほど、クロイツェルと聞いた瞬間、カレン側妃は大きく反応を見せた。セイリアにも分かったのだから、シェーンが気付かないわけがない。
「母上……何か心当たりでも」
シェーンと同じ海色の瞳が狼狽して、それから動揺を隠すようにひたと真っすぐになった。
「いいえ……それで? 続きを聞かせて」
「……父上が行方不明になり、王位が空いて、僕も後ろ盾を失い、責任問題にもなって一石で何羽の鳥を落とせるか分からないほどです。そして、伯父上はまだ起死回生の可能性のある僕を完全に、再起できないように、どうやら最近必死に僕の出生を――つまり、母上の出自を調べているようなのです」
カレン側妃の瞳はもう揺らがなかった。風に吹かれたらあっさりパタリと倒れてしまいそうな雰囲気をしているくせに、意志はどちらかというと強い女性らしい。こういう人と陛下が合わさるとシェーンができるのかと、色んな意味でセイリアは感心した。
「母上」
シェーンの声は労りと気遣いを含みながら、鋭かった。
「真実はどうなのですか」
カレン側妃は微かに首を傾げ、反芻した。
「真実?」
「直球に言えば」
シェーンは息を吸い、その吸った息を吐き出すように言った。
「あなたは、誰なのです?」
|