Get Away 
逃走

 

 農民の一日は早い。日が昇る前、まだあたりが暗いうちに起き出して、家畜に餌を与えたり、自分たちの朝食の準備をする。城で働く者もそれは例外ではなく、主人より1時間や2時間は早く起き出して、主人の朝食や着替え、暖炉などの準備をするのが常であった。城への人の出入りも激しくなる。夜半過ぎでは万が一誰かに見られていた場合、逆に目立って不信すぎるため、この時間帯が、人ごみにまぎれて逃走するのに最もふさわしいというのは、まあ当然のことだった。

 セイリアは荷物をまとめたカバンを背負った。メアリーは最後までついて行きたいと言ってくれたのだが、そういうわけにはいかない。それよりもアースのサポートをして欲しい、と言ってあった。
 出発に際して泣き出されるかなと心配していたのだが、そんなことはなく、メアリーはしっかり、年上らしく落ち着いた態度でセイリアと向かい合ってくれた。
 アースは心細そうだったが、やはり落ち着いていた。父はいつものオドオド加減はどこへ行ったのやら、どこか堂々として見えるくらいだ。肝心な時には動じないのね、お父様、とセイリアは珍しく父に高評価を下した。

「それじゃ、行って来ます」

 口に出して言うと、何だかとても味気のない言葉のような気がしてしまう。どれだけの思いを込めたのか、ちっとも伝わらない。
 セイリアの家族は、静かに頷いた。
「元気で」
「あんまり無茶しないでね、姉さん」
「お気をつけてくださいまし」
 メアリーはしかし、最後の最後で、メアリーらしいことを言った。
「でも、本当によろしいんですか。女の服はそれ一枚で」
 セイリアは苦笑してしまった。センチメンタルな気分が吹き飛んでしまった。けれど、だからこそ、やっぱりここに戻って来たいと思う。
「村娘の格好さえできれば十分よ。令嬢に化ける機会があったとしても、あたしじゃ余計にボロ出すだけだわ」
「そんなことおっしゃらずに、努力なさってくださいよぅ」
 セイリアはやはり笑って、返事をはぐらかして手を振った。
「本当に、これでしばらくお別れよ。手紙、書くからね」
「うん。姉さん、いざとなったら本当にみんなで農民になってもいいんだから、やりすぎて打ち首にならないでね」
「ならないわよ。殺されたってあたしは死なないわ」
 アースはセイリアと同じ顔で微笑んだ。
「姉さんが帰って来た時には姉さんにほめてもらえるくらい、立派になってるからね」
「……期待しないでおくわ」
「ひどい……」
 がっくりと肩を落とした息子の肩を叩いて、ヴェルハント子爵は言った。
「……いってらっしゃい」
「うん」
 セイリアはにっこりと笑った。

 変装はばっちりだった。もとから庶民的な雰囲気を持っているので、村娘の格好はセイリアによく合っていた。すっぽりとフードをかぶっているのでかつらをかぶる必要もなかった。なんの問題もなく、下働きの乗ってきた馬車に乗って外に出る。そのまま馬車に乗って城外に出た。
 城外ではシェーンが待機していた。昨日は子爵邸に泊まっていったのだが、今朝早く、一足先に城に届けられる荷物の集積所で人ごみにまぎれていたのだ。
 セイリアはシェーンをみて思わず口をぽかんと開けてしまった。予想以上に美少女だった。村娘にしてはあまりに洗練されすぎている感じ。逆に目立つかもなぁ、と少々心配になる。幸い、これでもかというくらいの不機嫌な表情のおかげで美人度は20%ほど減っていたのだが。フードを深くかぶっていて、顔が見えにくいのも幸いだった。
「乗って」
 セイリアが手を出すと、シェーンは顔をセイリアから隠すようにフードを更に深くかぶって、セイリアの手を取った。馬車に乗るとシェーンは馬車の幌の中に入る。
「そんなに恥ずかしい?」
 苦笑混じりに聞いたら、シェーンはとことんぶっきらぼうに言った。
「一生の恥」
 そこまでじゃないでしょう。思ったが、なんだか面白くてセイリアも馬車の中へもぐりこんだ。シェーンはぎょっとすると、嫌がるように奥へ行く。
「来なくて良い!」
「なんでよー。せっかく二人なんだし」
「こんな格好で二人でいられても嬉しくないよ! もういいから、外に出てて。見るな」
 こんなに余裕のないシェーンも珍しい。
「いーじゃないの、一生に一度かもしれないんだから、楽しみなさいよ」
「女装を? 冗談じゃない!」
「普通着てみたいと思うものなんじゃないの? 女の子の服を着る機会なんて滅多にないわよー。こんな非常時で仕方なく、なんて状況じゃなければ変態だもの」
「……ますます嫌だ。というかセイリア、楽しんでるだろう」
「そんなことないわよ?」
「…………」
 怒ったのか、シェーンはぷいっとそっぽをむいた。
「なんかその格好でいられると、何を言われても不思議と腹が立たないわね」
 にこにこしながらセイリアが言ったが、シェーンは一瞬セイリアに視線を向けただけで、余計顔を背けただけだった。
「拗ねないの。これから大変なんだから、もうちょっとしゃんとしなさい」
「大丈夫、頭は冷静だから」
「……そうなの?」
「どうやったら女装しなくてもバレずにすむか考えてるところ」
 結局そのことで頭が一杯なんじゃないの、とツッコミたかったが、あまりいじるとかわいそうなのでやめておいた。そのかわり、セイリアは外に出て、御者と並んで座ることにした。

 馬車は街中を通り、領地を出て、田舎道を進み続ける。小さな村の修道院前で御者とは別れ、セイリアが代わりに手綱を握り、そのまま馬車を進めてルウェリンとの合流地点へ向かった。ルウェリンは既にそこで待っていて、女装のセイリアを見て目をまん丸にした。
「なんだか見てはいけないものを見てしまった気がします……」
「慣れておいてね、女装はこれからも利用するつもりだから」
 苦笑しつつそう言うと、ルウェリンは違和感がぬぐえない、というような表情で頷いた。
 そのままルウェリンには馬車の中に入っていてもらう。しかしすぐに彼は出てきた。さっきより更に複雑そうな顔でセイリアの隣に座ると、告白した。
「ますます、見てはいけないものを見てしまいました」
 もう、セイリアは何も言わなかった。

 その日は馬車で野宿した。宿に泊まると足が付きやすそうだったからだ。その翌日に、馬車を捨ててセイリアたちは馬に乗り換えた。女の子が馬をかっ飛ばしていては変なので、仕方なくセイリアだけ男装になる。シェーンは女装続行。当然文句たらたらだった。それを叱り飛ばし、口喧嘩になりながら、念には念を入れて二手に分かれて数時間ごとに合流するという進み方をした。
 シェーンは各地に協力者を手配してあるらしく、時々物資の補給のために彼らに会うことがあったが、そのときはもっぱらセイリアかルウェリンが荷物を受け取りに行き、シェーンは顔を見せなかった。まあ、当然か。

 旅は順調だ、とセイリアは感じていた。少なくとも、去年クロイツェルに行った帰りに道に迷った時よりは切羽詰った状況にはない。今回は追っ手がいる可能性があるから、ちょっとばかり危ないだけだが、それでも目的も敵の正体もわかっていて、こちらにはそれに対する対策をしてあるというところで安心感が違った。
 それで、少し気を緩めていたのかもしれない。出発して3日目、早速だがシェーンの逃亡に向こうは気付いたらしかった。大々的に捜索が始まっていた。幸い、女装で逃亡したことはバレていないようで、ルウェリンが一緒に来たこともバレていないようだったが、さすがにセイリアと一緒だということはバレているらしい。王子とその側近が行方不明、という張り紙を、物資の補給に寄った町で見つけてセイリアはぎょっとした。
 まだシェーンを用心しているのだろう、「反逆者」とか「罪人」という烙印は押されていなかったが、どっちにしろ捜索されていることには違いない。自分も女の服装になったほうがいいのだろうなと考えつつ、セイリアは町外れで待っていたルウェリンのところに戻った。残りの買い物は顔の割れていないルウェリンに任せて、セイリアは近くで休憩していたシェーンのそばに駆け寄った。
「張り紙が出てたわよ」
「……思いのほか、早いね」
「うん」
 シェーンはいつもながら冷静だった。そろそろ女装にも慣れてきたのだろうか。
「僕は反逆者になってた?」
「ううん、まだ。行方不明の王子を探してるって扱いになってたわ」
「そっか。さすがにそこまでの強硬手段には出なかったんだね」
 シェーンは水袋から水を飲んで、きゅっとふたを閉めた。
「街にはもう入れないな」
「そうね。……あたしも、女のカッコしてた方がいい?」
「そうだね。男ってことで捜されてるんだろう?」
「一応。……でもどうかしら。ハーストン公爵はあたしが女だってこと、疑ってたもの。捜索隊には“女”も視野に入れておけって伝わってるかもしれないわ」
「まあ、その格好でいるよりはバレる可能性が少ないんじゃないの?」
 セイリアは面倒くさいなぁ、と呟いた。庶民の服でも女の服は動きにくい。
「……シェーン」
「うん?」
「嬉しい? あたしも女の格好しなきゃいけなくなったのが」
 シェーンは意地の悪い笑みを浮かべて言った。
「嬉しい」

 そういうわけで、ルウェリンが買い物を済ませて帰ってきた時には、既にセイリアも女装になっていて、ルウェリンは目を瞬くと、なるべくセイリアを見ないようにしながら荷物を馬にくくりつけ始めた。正直複雑だ、こっちの方が一応は本来の姿なのに、見てはいけないものを見てしまったような態度をとられるのは。

 それからは、少々辛い旅になり始めた。なにせ大きな街道は通れない。小さな田舎道、森の小道を行くしかなかった。しかしもちろん、そういう辺鄙な道にも、時たま捜索隊が出ているという噂を聞いた。まあ、普通逃亡中の人間が大通りを通ることはないから、探すなら辺鄙な場所なのは当たり前なのだが。相手にもそれくらいの頭はある。かといって大通りを通れば人目に付くから、辺鄙な場所を通らざるを得ない。
「逃亡がこんなに神経をすり減らすものだとは思わなかった」
 セイリアはポツリとこぼした。おかげで持ってきた剣はいつでもセイリアの背中だ。少女が剣を持っていると変なので、ほかの荷物に見えるように包み方を工夫してはいるが。ちょっと抜きにくそうだから、とっさのときには抜けないだろう。それで懐に短剣も忍ばせておいた。ルウェリンはきちんと帯刀しているが、こちらも普通の庶民が剣を持っているのは不自然なので、同じように布に包んである。一応二人いるから、万が一取り囲まれたら強行突破を試みよう、とセイリアは考えていた。

 しかし、なんとこんな大事な時に限って、セイリアはひどく風邪を引いた。酔っていても馬を操れるほどなので馬の操縦に支障はなかったが、明らかに体力がもたない。セイリアは反対したのだが、シェーンの提案で宿を取ることになってしまった。
 それぞれ個室だといろいろ不都合があるので、一部屋だけ借りる。ベッドは二つ、セイリアとシェーンが使うことになり、ルウェリンは床で寝ることになった。
「嵐の中でびしょぬれになっても風邪を引かないくせに」
 シェーンはこんな時でも皮肉を言う。
「風邪の二文字は君の辞書に無いんじゃなかったの?」
「一度も引いたこと無いってわけじゃないもの」
 セイリアは詰まった鼻声で答えた。
「最近いろいろあったからね。あんたはよく引かないね」
「いいから、もう今日は休んで。君がその状態じゃ、進めても大した距離にならない」
 おかげで薬を飲んで、温かいベッドで一日たっぷり休めたので、すぐに治りそうだった。だが、その夜に、セイリアは不信な気配を感じて目を覚ました。

 下の階。複数人。
 ――追っ手だ。


最終改訂 2008.11.02