なんだか、小さい頃の夢を見た気がした。セイリアのそばに母がいた。セイリアと同じ黄色味の強い緑の瞳をセイリアに向けながら、看病してくれている。
「これはねぇ、お母さんの故郷でよく使う薬草なのよ。甘い匂いがするけど、味はとっても苦いのよね。でも、風邪にはよく効くわ。体力回復にもいいのよ。セイリアの風邪が治ったら、一緒に近くの林にでも行きましょ。葉っぱの見分け方を教えてあげるわね」
そう言ってくれたのを覚えている。けれど、果たしてこの約束が守られたのかどうかは覚えていなかった。ただ、その葉を乾燥させて煎じたお湯は本当に甘い香りだった。母の言う通りで、あまりの苦さにセイリアは一口目を吐き出したのだが。
ああ、いい香りだ。お母様の、優しさの匂いがする――
セイリアはぱっちりと目を覚ました。ベッドの上に寝ているので、視界に広がっているのは天井だろう。そして、ベッドの下からひそひそと声が聞こえていた。
「こんなベタな隠れ場所で大丈夫なのか?」
シェーンの声だ。
「仕方ないですよ、旦那さんも慌ててましたし、押し込まれてしまったからには出て行けないじゃないですか」
セイリアはもぞもぞと体を動かし、ベッドの縁に手をついてベッドの下をのぞき込んだ。シェーンとルウェリンが驚いた顔で見返して来た。
「……シェーン、ルー、何やってんの」
「あ、アース殿」
「今目が覚めたの?」
「うん。ちなみにすっかり元気みたい」
「だったらちょうどいい。君も下においで」
「はい?」
シェーンに言われてセイリアは目を瞬いた。
「だれかが探しに来たの?」
「そう。だから早く」
仕方がないので、寒いからシーツと一緒に、セイリアもベッドの下に潜り込んだ。
「……私が目を覚ましていなかったら、私だけベッドの上に転がして見つかるに任せるつもりだったわけ?」
もっともな疑問を投げかけると、二人は気まずそうにあはは、と笑った。
「とっさのことだったもので……」
ルウェリンが言った後は、三人とも黙っていた。玄関先で何かやり取りをしている男と旦那さんの声が聞こえる。
髪の毛一本動かせない状況で、三人分の、押し殺したはずの息の音がやけにはっきりと聞こえた。
何分経っただろうか、旦那さんが部屋に入って来た。
「……もう大丈夫ですよ」
三人はやれやれという心境でベッドの下から這い出した。旦那さんはセイリアを見て微笑む。
「もういいんですね」
「あ、はい。この通り元気になったみたいです。一応はまだ病み上がりですけれど」
到底病み上がりには見えない、むしろ寝起きにすら見えないハキハキとした様子でセイリアは返事をした。旦那さんは微笑む。
「一度調査した場所ですから、もう来ないでしょう。これからはどうぞごゆっくり」
「いや」
シェーンがやんわりと、しかしはっきりと断った。
「あまり長居するわけにはいかないから。あまり巻き込みたくない」
「ですが」
「家族が大事じゃないのか?」
シェーンはすっかり上の立場からものを言っている。相手が、自分が王子だと知っている以上、王子として接するということだろう。
シェーンの言葉を聞いた旦那さんは、そっと控えめな苦笑を漏らして言った。
「その家族が、全員奮起しているんです。みなさんを助けよう、と」
「マチルダとニコルまで?」
セイリアが聞くと旦那さんは頷いた。
「ローダを手伝って走り回っていますよ。二人ともおお張り切りです」
嬉しいけれど困る、という、珍しいくらい素直な表情をシェーンは浮かべた。
「王子様」
旦那さんはそんなシェーンに、どこまでも人のいい笑顔を向ける。
「もう巻き込まれてしまいました。最後までお付き合いさせてください」
その時の旦那さんは、なんとなく、そこらの貴族より、誇り高く見える態度だった。
「シェーンお兄ちゃんはうちでゆっくりするのー」
「するのー。それでニコルと遊ぶのー」
「マチルダとも遊ぶのー」
久々の再会にもかかわらず、シェーンは相変わらず姉妹の人気者だった。両手に花というか、両手を引っ張られてちょっと困ったような笑みを浮かべている。
「分かった、分かった。遊んであげるから。じゃあ、あっちで何をして遊びたいか考えておいで」
「はあい!」
「はあい!」
パタパタと姉妹は駆けて行った。開放されたシェーンは、やれやれとため息をつきつつ、テーブルについているセイリアとルウェリンのところへやってきた。
「王子様、子供の扱いが得意なんですねぇ」
ルウェリンが感心しきった顔でそういう。シェーンはまあね、と呟いた。
「アーネストで慣れてるから。……あの二人はアーネストよりも扱いやすいよ」
「あんたの弟は言うこと聞かなさそうだもんね」
セイリアが言うと、シェーンはじとりとした視線を返してきた。
「……君に言われると無性に腹が立つな」
「ってことは、あんたもそう感じてるってことだ」
「いや、別に。君の言葉は九割方、挑発に聞こえるってことさ」
「なにそれ。被害妄想じゃない?」
「そういう妄想を抱くほど、君の態度がつっかかるってことさ」
「でも、いちいちそうやって嫌味を返してくるのあんただけなんだけど」
「そりゃあ、君のような嵐に巻き込まれて無事でいられるのは僕ぐらいだから、安心して嫌味を言えるってだけさ」
「むかつくー」
「褒め言葉だね」
にこり、とシェーンが笑う。セイリアは頬を膨らませていたが、結局笑いをこらえきれず、同じく笑ってしまった。いつもの口喧嘩、そしていつも負けてしまうこと。全部が「ああ、日常だ」と思わせてくれるものだった。
今は、シェーンは太子ではないし、セイリアも騎士ではないけれど。
「お二人の口喧嘩って、見ててほっとします。変ですね」
ルウェリンもニコニコ笑って言う。彼もすっかり二人の扱いに慣れた様子だ。
「でも王子様、このままずっと、ここにお世話になるわけにもいきませんよね? どうしますか?」
「とりあえず、捜索隊は僕らを追い越していってしまったということになるね」
シェーンは目を閉じ、指先でトンとテーブルとつついた。まぶたの裏で地図でも思い浮かべているのだろう。
「旦那さんは一同捜索しに来たからもう来ないだろうといっていたけど、正直、僕はそうは思えない。この村にはもう来ないかもしれないけど、僕たちはどうしても、物資の調達で大きな街に寄らなきゃいけない。大きな街には、やつらも捜索員を残すはずだ。向こうも追い抜いてしまった可能性を考えているだろうからね」
「じゃあ、小さな村を渡り歩くしかないってことですか?」
「そうするしかないけれど、それじゃあ時間がかかる。港に着く頃には向こうも網を張ってるよ。僕たちはその網に飛び込むしかなくなる」
話を聞いていたセイリアは、ポツリと呟いた。
「馬があればなぁ」
「本当だね」
シェーンもため息をついた。
「いっそ休みなしに港までかけていっちゃうんだけど。向こうを追い抜き返して、そのまま一直線に逃げ切りだ」
その時、ニコルとマチルだが帰ってきた。
「追いかけっこの話ー?」
「話ー?」
姉のマチルダの語尾を、妹のニコルは繰り返したがるようだ。
「じゃあ追いかけっこがいいなー」
「追いかけっこがいいねー」
「え、いいって……?」
少し困ったようにシェーンが呟くが、姉妹に連行されかけている事態には気付いているようだ。少し困ったようにセイリアとルウェリンに視線を送ったが、セイリアとルウェリンは肩をすくめただけだった。話し合い中断決定。
「遊ぼう! シェーンお兄ちゃん」
「遊ぼう! ルーお兄ちゃんとアースお兄ちゃんも」
二人はきちんとセイリアをアースと呼んでくれていた。どうして男に成りすまさなきゃいけないのかは聞かれなかったが、どうやらゲーム感覚らしい。
そのまま三人とも姉妹に引っ張り込まれ、結局隠れ鬼をすることになってしまった。ゴールは家の入り口、そこまで姉妹がたどり着けば姉妹の勝ち。隠れた姉妹を追いかけるのは年上たちの役目。しかし年齢差もある上に、セイリアとルウェリンは元・騎士である。身体能力の差からいっても、姉妹に勝ち目はなかった。
姉妹は敗色濃厚と感じたのか、色々と工夫し始めた。まず、そこの抜けたたるに隠れて移動したり、なんとセイリアに賄賂を送ろうとした。
「そんなずるいことはしちゃいけません」
とその時はセイリアが一喝して二人まとめて捕まえたが。
最後は二人は見張り役をしていたルウェリンの目をかいくぐって、一定距離ごとに逃げては隠れを繰り返し、少しずつ進んだ。最後にはなんと演技までした。彼女たちは両親にひっつき、お手伝いをして、まるでゲームを放棄したような態度を取った。子供というのは気まぐれなものだから、てっきりセイリアたちは本当に彼女たちがゲームを放棄したのかと思った。
だまされた、と気付いたときには、姉妹はどさくさにまぎれてゴールしていた。入り口で「勝ったー!」と喜んでいる姉妹を見て、シェーンは呟いた。
「これ、いけるかも」
「え?」
「放棄したと見せかける、とか、他の旅行者と一緒に行くんだ」
「だって、見つからない?」
「僕たちにどんな協力者がいるか、向こうは知らないよ。この家にたどり着いたのだって、真実偶然だし」
「最後に罠が待ってたら? あんたが言ったんでしょ、捜索隊が港で網を張ってるって」
「それは賄賂でどうにかなるかも」
「わっ……!?」
相変わらず反社会的なことをさらりと口にする。
「……本当にやったら見損なうよ」
非難するような目で睨んでやったのだが、シェーンはやっぱりさらりといっただけだった。
「命には代えられないと思うけど」
「あのねぇ」
呆れた顔をするセイリアにシェーンは笑いかけた。
「こういうところは妙に常識的なんだね、君は。他国の王宮のドアを、鍵がないからって蹴破ろうとか言い出すくせに」
そう言われてしまうと返す言葉がない。
「大丈夫。港で網を張っているとは言っても、網には普通穴が開いてる。上手くその穴を通っていけばいいだけだ」
「穴って?」
「普通の民間の漁船に乗せてもらう、とか。あるいは、商人の一団に紛れていけば、上手く行くかもしれない。本来僕は取り締まる立場だけれど、密航っていう手もあるね」
話がどんどん不法手段になりつつある。
「犯罪者にはなりたくないんだけどなぁ……」
「法のグレーゾーンをいつも歩いてきたくせに」
まあ確かに、女の身で騎士隊に入っていたことを思えばこれくらいどうでもないのかもしれない。
「リアル隠れ鬼さ。手段は選ばなくていい。ヌーヴェルバーグに着くまでに追いつかれなければ勝ちってことさ」
セイリアは少し考えたが、結局腰に手を当てて、ふう、と息を吐いただけだった。
「まあ、いっか。ゲームだと思えばいいわけだね。大丈夫、私負けず嫌いだから。絶対負けてなんかやらない」
「そうこなくちゃ」
シェーンはにこりと笑って、それからルウェリンのほうを向いた。
「君は? お尋ね者になる覚悟は?」
ルウェリンは軽く微笑んだ。
「もうなってるじゃないですか」
話は決まったようだ。
「何のお話ー?」
「船のお話ー?」
ゴールから駆け戻ってきた勝者姉妹二人は、またシェーンの腕に絡みつく。すっかりお気に入りのようだ。
「ねぇっ、ティルダとニコルは勝ったんだよね?」
「ねぇっ、ごほうびは?」
「ごほうび?」
ニコルとマチルダはにこーっと笑った。
「今夜はティルダとニコルで二人占めねっ!」
「そんで明日はアースお兄ちゃんを二人占めねっ!」
「そんで明後日はルーお兄ちゃんねーっ!」
どうも三人ともお気に入りらしい。そして今日のお気に入りはシェーンで決定したようだ。……この分では出発は明々後日まで無理そうだ。
二人にしがみつかれながら、シェーンはちらりとセイリアを振り返る。セイリアは首を傾げ、「うん?」と聞いた。
まったく妬いてくれていないセイリアに、シェーンがちょっぴり落ち込んだ顔でため息をついたのは、セイリアには見えていなかっただろう。
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