姉のいなくなった屋敷は静かだ、とアースは思った。既に雪はほとんど溶けているのに、どこか寒々しい屋敷。アース自身は静寂が好きなはずなのだが、騒がしい姉がいないのはやはり寂しい気がした。春が来たのに太陽が欠けている。
「若様」
メアリーの声に、ぼんやりと書庫で本を手に、しかし視線を窓の外に向けていたアースは振り返った。
「お嬢様からお手紙ですよ!」
アースは思わず立ち上がり、目を輝かせた。
「姉さんから?」
「はい。使者の方が、ついさっきこれを」
渡された封筒はすぐに破った。自室に戻ってペーパーナイフを探す手間すら惜しかった。アースはその場で読み終え、ほっと一息吐くと、メアリーに言った。
「無事に向こうに着いたって」
「よかったーっ!」
メアリーは手を叩いて喜んだ。アースも笑う。
「みんなにも知らせたい。呼んでくれる?」
「分かっていますよ」
頼れる侍女はにっこり笑って、いつものメンバーに連絡を取るべく、すぐにきびすを返した。
レナードは、ほんの少しほっとした表情を見せた。それだけだ。何も言わない。一緒に来た大尉はそんな従者を見て苦笑していた。アースは息が詰まりそうだった。こういう場合に、沈黙を破って話題を提供する方法を、アースは知らない。沈黙すること一分、やっと大尉が口を開いた。
「二人とも、何か言いなよ」
レナードとアースは同時に、何を?と問うような視線をハウエルに投げかけた。ハウエルは苦笑する。
「アース、他に詳しいことは書いてないのかい?」
助け舟を得たことにほっとしながら、アースは手紙を読み返した。
「ええと、特に何も。デュルヴィル家というのは、どうやらサルヴェール将軍の妹君が嫁いだ家のようです。王子様は将軍に近付くつもりのようで。……妹君はかなり活動的な方みたいですよ」
「そうか」
沈黙。大尉がアースに、促すような視線を向けていたので、アースはどうしようもなくて突っ立っていた。ええと。
「……ええと、その、レナードさんのほうの成果は」
やっとのことで聞いてみると、レナードはようやく口を開いた。
「決定的な証拠はありませんが」
「うん」
「仮王陛下の密使を尾けました。やはりヌーヴェルバーグへ渡りました。その他にも、クロイツェル北東部にも」
「……ヘルネイ」
アースの呟きにレナードは目を瞬く。
「ええ、確かに旧ヘルネイ領にあたる場所です」
「ふうん……」
シェーン王子の考えは、双子の姉から常々聞かされている。アースはきな臭いな、と呟いた。その呟きを耳聡く耳に拾った大尉がアースに問う。
「旧ヘルネイ領を重点的にレナードに調べてもらうかい?」
「あっ、いえ……」
アースは慌てて言った。
「さすがに公爵に怪しまれそうですから」
「そうか」
「その……公爵の方の動きは」
問うとレナードが再び口を開く。
「目立った動きはありません。シェーン殿下たちを取り逃がしたことには気付いているようですが」
「ヌーヴェルバーグへ連絡は?」
「少なくとも、確認できませんでした。これから連絡する可能性は大いにありますが」
「そう……」
アースは言ったきり、沈黙して少し考え込んだ。その間に大尉が口を開く。
「アース、いつまでも相手の様子を伺うのはよくない。大きな動きがないだけで、王兄殿下は常に動いている。わたしたちも何か手を打つべきだよ」
「でも、王兄殿下が陛下に何かしたなんて証拠、誰か証人を見つけるなり、証拠の手紙を見つけるなりしないと見つかりませんし……公爵の城にもぐりこむには少々無理が」
「アリアンロード嬢は?」
「お兄さんを説得して、商家の方面からの接近を図っています」
「それはいい」
大尉はひとつ頷く。
「けれど、いまひとつ決定的なつながりが足りないな」
アースはついさっき考えていたことを口に出してみた。
「ランドル王子の協力って、得られないんでしょうか」
「ランドル王子?」
大尉とレナードが同時に言った。大尉は虚を突かれたように、レナードは軽く動揺したように。大尉は眉を寄せ、首を傾げて呟いた。
「どうだろう。事が事だからなぁ、あの王子が動いてくれるかどうか」
「……ですよねぇ」
アースはがっくりと肩を落とした。
「ランドル王子って、何があると動いてくれるんでしょう」
「さあねぇ……ランドル殿下は未婚だから、守るべき家族もいないし」
「誰かとの縁談話は?」
「何回かあったみたいだけれど、いずれも白紙になったよ。そもそも王子はどの縁談に対しても、乗り気ではなかったみたいだし」
このままだと、うっかりするとうちの妹にも話がくるかもしれない、と大尉は苦笑気味に冗談を言った。
「王子の動機になるものがないなら作ればいいという手もあるけど、色仕掛けはあまり、おすすめしないね」
「……ですよねぇ」
そもそもあのランドルが引っ掛かる気がしない。そして色仕掛けに向きそうな少女が手近にいない。
「……セレスティアでは無理でしょうか」
突然レナードが口を開いたのでアースとハウエル大尉は一瞬反応できず、レナードを振り向いたまま固まった。レナードは、質問の形の発言に回答があるのをじっと待っている。先に口を開いたのはハウエルだった。
「レナード、セレスティア嬢は君の妹だよ。いや、まあわたしたちの身内じゃなければ良いって問題じゃないんだけど……なんというか、抵抗感は無いのかい?」
「抵抗感……」
「妹が、本当はその気が無い男に対して色仕掛けするんだよ?」
レナードはちょっと黙り込んだ。表情には出ていないが、複雑な心境になっているのかもしれない。ハウエルはそれで自分の従者に妹を思う心があったと安心したのか、どこかほっとした顔をした。
しかし、レナードは再び口を開いた。
「色仕掛け、という訳ではないですが……気を引くことならできるかも知れません」
「どういうこと?」
アースが問うと、レナードは淡々と言った。
「この前もお茶をご一緒しましたし、ランドル王子は俺とセレスティアに興味がおありのようでした」
「ああ、まあ……確かに」
ハウエルが肯定する。アースも、以前聞いたお茶会の話を思い出した。そのときはランドル王子がレナードのお茶いれ技術の犠牲になったことが印象的すぎてあまり覚えていないが、そういえば和やかな良い雰囲気だったと教えてもらった。
「俺はこの通りなので、どうランドル王子に気に入ってもらえれば良いのか全く分からないですけれど、大尉がお手伝いくだされば、あるいは……」
レナードはぽつぽつと言って、大尉に賛否を問うような視線を投げた。是非やりましょうとまで言う自己主張は無いが、一度反対された意見を諦めずに説得を試みるのは、レナードにしては珍しいことだ。大尉もそう思ったのかもしれない。少し考えた後に頷いた。
「よし、やってみよう。ランドル王子を味方にできれば、随分楽になりそうだ」
「まあ、よかった」
大尉、レナードの二人とは別の日に来てもらったセレスティア嬢はささやくように言って、そっと息を吐いた。
「では、あちらはうまくいきそうなんですのね?」
「そうみたいです……あの、ちょっと骨が折れそうだ、とは言っていたんですけれど」
アースは言って、ちらりと何の反応も無く相変わらずぼんやりした視線をさまよわせているアリアンロードの方を見た。女の子は苦手だ。どう接したら良いのか本当に分からない。セレスティアはまだ、話のつなぎ方が上手なので何とか会話になるのだが。
まあ、今までの会話から見ても、言いたいことがある時はアリアンロードは口を開くだろうと思いつつ、アースはセレスティアに聞いた。
「ランドル王子のこと、お兄さんから話は聞きましたか?」
「ええ。あの、でも、協力を得るためだけに仲良くするふりをする、というのでは嫌なんですの」
セレスティアはきっぱりと言った。アースは首を傾げる。
「どうしてですか?」
「わたくし、ふりはいやなんです。本当にお友達になりたい、というのではいけないかしら」
アースは目を瞬き、そういう意味か、と思わずくすりと笑いそうになった。
「もちろん、かまわないですよ」
セレスティアはほっとした顔をした。
「よかった。わたくし、下心だけで演技できるほど器用ではないですから」
「そういう器用さは、本来はない方が正解ですよ」
アースは答え、お茶を運んで来たメアリーからカップを受け取った。一口すすって顔を上げると、アリアンロードと目が合った。まともにこちらを見ていた。ぼんやりとではなく、まともに。空よりももっと薄い、氷を思わせる色でありながら冷たくはない瞳を、アースは見つめ返した。すぐに気まずい気分になって目をそらしそうになったが、失礼だと思い当たって口を開く。
「……アリアンロードさんの方はいかがです?」
「アリアン、と」
あっ、と呟いてアースは謝った。
「毎回すみません、ア……アリアン」
いいえ、とアリアンロードは呟いて、やっとアースを見つめるのをやめた。
「数回、兄と一緒にハーストン公爵家に行きましたが」
「はい」
「女中の一人と仲良くなりました」
「女中……城の中での立場は?」
「それほど高い地位の女中ではありませんが、頭はいい人です」
アリアンロードはぽつぽつと、しかしよどみなく言う。
「公爵の伝令をつとめている男に言い寄られて迷惑しているようで」
アースは黙り込んだ。……アリアンロードは自分を試しているのだろうか。伝令をこちらの情報源として確保できれば、もちろんそれ以上に有用なことはない。しかし、それと関連して、その伝令が言い寄る女中の話が出てきたということは、その人に頼んで色仕掛けをしてもらいましょうか、というアースに対する打診にも聞こえる。つい今し方、色仕掛けだの本心から仲よくなるだのという話をしていたのに。
アースは迷ったが、結局口を開いて聞いた。
「あなたは器用ですか、アリアン」
アリアンロードは顔を上げ、またアースをまともに見た。
「だと、思います」
彼女が自己評価するならそうなのだろう。戸惑いながらもアースは言った。
「そんなに積極的に働きかける必要はないから……向こうから引き出せる情報は引き出してくれると嬉しいです」
「それだけで良いのですか」
「その人が使用人の立場である以上、こちらに情報を流していたのがバレたら王兄殿下にどう処分されるか分からないから……それに、迷惑していると言っているとはいってもその人は王兄殿下のもとで勤めているんでしょう。下手に協力を仰いで、もしその人が忠実な人だったら、こちらの墓穴を掘ることになってしまいます」
アリアンロードはその言葉を聞いて、ひとつ瞬くと、ぽつんと呟いた。
「分かりました」
なにか反論されるのではないかと思っていたアースは、彼女の素直な態度に少し虚を突かれたが、思えばアリアンロードは、鋭くてこちらが緊張することはあるけれど、別に何かこちらが怖がるような暴言を吐いたりする子ではなかった。
「よ、よろしく……」
それでもなぜか緊張しながらアースは返した。
話し合いの後、アースは二人としばらくお茶を飲んだり、好きな文学などについて話したりしたのだが、セレスティアは夕方からレナードと大尉のところに行くことになっているらしく、お先にお暇します、と言って帰った。友人と一緒にアリアンロードも帰るのだと思っていたアースは、彼女が当たり前のようにセレスティアにさようなら、と手を振ってソファに座り続けているのを見て、驚いたし途方に暮れた。
「……アリアンロードさんはまだ帰らなくていいんですか?」
アリアンロードはちらりとアースを見やって、ええ、と呟いた。
「そ、そうですか……」
メアリーが何か話題提供してくれないかと、壁のそばに控えている彼女に視線を送ってみたのだが、何も言ってくれない。アースがアリアンロードに視線を戻して見ると、彼女はじっとアースを見つめ、そしてしょんぼりとした。
「……帰った方が良さそうですね」
「え!? あっいえそういうことでは……」
「そうですか?」
「是非! 是非新しく仕入れたお茶を試していただきたく!」
アリアンロードは嬉しそうに笑った。
「はい、是非」
アースはどうにも振り回されているような気がしながらも、不自然なまでにてきぱきとメアリーにお茶の指示を出した。メアリーは少々呆れたような苦笑を浮かべて茶葉を取りに行った。
アリアンロードはアースがソファに戻ってくるとポツン、と言った。
「アース殿はセレスティアさんが苦手なのですか」
え、とアースは聞き返しそうになった。意外な質問。
「に、苦手というか……」
「王子様との縁談があった方だから、気まずいのですか」
「まあ、そんな感じです」
嘘だが、セイリアのふりをする上で、対人恐怖症などとは言えなかった。幸い、アリアンは何も言わなかった。
「やっぱり、顔に出てるんですね」
不安になってアースは呟く。セレスティアにも、自分が彼女を苦手に思っていることが丸分かりだったらあまりに申し訳ない。アースが悩んでいる一方で、アリアンロードは二回目を瞬いて呟いた。
「……いいえ、そういうことでは……アース殿とセレスティア嬢がどれくらい仲がいいのか気になっただけですから」
「え、そうなの?」
今度はアースが目を瞬く番だった。うっかり、年上のアリアンロード相手に敬語を忘れた。てっきり、苦手を表情に出したことを諌められたのかと思っていた。
「個人的な興味です……すみません、紛らわしいことを。私はいつも説明不足ですね」
「え、あ、別に」
アースはあわてて否定した。
「これだから、私、人付き合いはあまり好きではなくて」
アリアンが呟く。今日は妙に饒舌だなぁ、とアースは首を傾げていた。普段だったらこちらの質問の返事ぐらいは返してくれるものの、そこかから話を発展させないまま彼女は会話を終了させてしまう。悩み相談のようなことを話してきたのは本当に、ものすごく意外だった。同時に親近感も沸いた。人付き合いが苦手な者同士。
「苦手なんですか。アリアンは人と接するのが得意だと思っていました」
「……そう見えます?」
「よく、他人のことを見抜いているから……。あるいは、人にどう思われようと気にしない方かと思ってました」
余計な一言だったかもしれない。アリアンロードは黙ってアースを見つめていた。アースが取り消そうと思った時、アリアンは言った。
「……気に、しています」
一歩遅かった。うわあぁぁぁ。
「すみませんすみません……」
アリアンは首を横に振った。
「いいえ、責めた訳では。アース殿はみなさんの話によれば社交的だそうですけれど、それほど得意そうではありませんね」
「は、はあ……」
今度はアースがしどろもどろになる。ここでもコミュニケーション指数が低いと言われてしまった。アリアンロードは気にする様子もなく、続けて聞いた。
「人付き合いは難しいです」
「…………」
アースは、ここは相槌を打った方がいいのか、何かアドバイスをすべきなのか(たとえそうでもアースには無理だろうが)それとももっと適切な反応があるのかと悩んでしまった。本当に人付き合いは難しい。
結局、密偵をやる上で新たに築かなくてはならない人間関係が煩わしいのだろうかと思って言ってみた。
「あ、あの……密偵役が辛いなら、無理しなくても」
アリアンロードは再び真正面からアースを見た。
「ではお言葉に甘えて、と言ったらどうしますか」
「え……」
なんの尋問だこれは。
「……それは、少し困ります」
アリアンロードはその素直な返事にどこか満足そうにこくりと小さく頷いた。
「それなら、私も大丈夫です。頑張ります」
「よ、よろしくお願いします」
するとアリアンロードも立ち上がったのでアースは聞いた。
「お帰りですか?」
「はい」
「あの……僕に用が有った訳では?」
「用……」
なかったらしい。
「少し、アース殿とお話をしてみたかっただけです」
アリアンロードはいつものぼんやりした表情でそう言うと、ぺこり、と頭を下げて帰っていった。
相変わらず何がしたいのか分からないし何を考えているのか分からない子だ、と思いながらも、アースは少しだけ、彼女が帰ってしまったことを残念だと思った。苦手は苦手だけれど、アースはアリアンロード自身には割と好印象を抱いている。
その数日後、アリアンロードからはなぜか報告の手紙とともに「お勧めの詩集」とメモが添えられた本が送られて来た。それは彼女自身が苦手だと言っていた恋愛詩の詩集で、やたらに甘い雰囲気が満載だった。アースが、その日は紅茶に入れる角砂糖すら目にしたくなくなるほどの甘さだった。
そして、アースは、アリアンロードには嫌われてはいないようだったのに、なぜ彼女は自分自身が苦手なはずの恋愛詩集を勧めてきたのだろうとしばらく悩んでいた。姉がいたら相談できるのに、と思いながら。
そして、アリアンロードはそれからちょこちょこと、子爵邸に遊びにくるようになった。
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