ハウエルは王兄とすれ違う際に、軽く頭を下げた。ほんのわずかに、敬意を込めた笑みに見えるような表情を浮かべて。レナードもそれに倣って頭を下げた。表情も見習いたいのだがどうも上手くいかない。相手はこちらが向けたよりも多くの関心を持って、こちらを見返したようだった。ハウエルはこのまますれ違おう、と思っていたようだが、呼び止められる。
「オストール大尉」
「……はい、陛下」
隣で歩いていたレナードも、わずかに警戒するような、不審そうな表情を浮かべて立ち止まった。ちらり、と王兄の視線がレナードをかすめる。一瞬身構えそうになったが、視線は通り過ぎてハウエルに向かった。
「ロドニーの行方については何も情報がないのか」
わざわざハウエルに聞くのか、と思った。同じことを思っていたらしく、ハウエルが答える。
「新しい情報は何も。……『陛下』の行方に関する最新の情報でしたら、陛下のところに全て集まっているかと思っていましたが」
わずかに込めた皮肉に気付いたようで、王兄はピクりと眉を動かした。
「上層部に伝わってこない情報が下に溜まっているのではないかと思ってね」
彼は薄く笑みを浮かべていった。
「近頃、カーティス殿下やランドル殿下とも話をしているようだから」
ばれていたのか、というようにハウエルは苦笑した。もとより隠し通せるものでもないのだろうが。
「ご心配なく。オーディエン嬢の付き添いですので」
「オーディエン、ね……」
呟いて、王兄は、今度ははっきりとレナードのほうを見た。レナードは相手の目を見つめ返す。しかしそれ以上の事は起こらず、王兄は歩み去った。去り際に目が細まったように見えたのだけが、レナードにとって少し気掛かりだった。
王兄の後姿を見送って、ハウエルがレナードに話しかけた。
「君に興味があるようだね。……オーディエン家、かもしれないけれど。レナード、何かあったらわたしに全部話すんだよ。一人で抱え込んではいけない」
「はい」
レナードは素直に返事をした。そういうところが不安なんだけどな、とハウエルは呟いて溜息をつく。レナードはいつものように戸惑う。
ハウエルが自分をどうにか導こうとしてくれているのは分かるのだが、自分は差し出された手がどこにあるのか分からないのだ。または、分かっても、その手を取り違えている気がする。
ハウエルを手本にして動けば良いのだろうとも思うのだが、自分は従者として動かなければならないのだし、真似ようにも相手のレベルが高すぎて途方に暮れてしまうのだ。
俺は役に立たない従者なのでしょうか。
いつだって、その疑問を胸の底に抱えている。決して口には出さない。出せない。出した時に返ってくる返事を恐れる程度には、レナードはハウエルに必要とされたいと思っていた。けれど、いくら考えても、どうするべきなのかわからない。
そういえば、妹は、「するべきか、ではありませんのよ」と言っていた。レナードは妹のことを考えて少し穏やかな気持ちになる。
「義務、とおっしゃるならお兄様は何も進歩していませんわ。どうするべきかではなくて、どうしたいか、ではありません?」
見目に反して、しっかり自分の意見と意志を持っている妹は、言葉は若干厳しいながらも、おっとりとレナードにそう言っていた。
(どうしたいか……)
たしかに自主性に欠けるとはよく言われる。お前の意志はどこだ、と。望むものがないのだから言われても困るというのがレナードの正直な気持ちだった。
何を望むのか。望むことを許されなかったというのに、いまさら問われても困る。強いて言えば、必要として欲しい。それだけだった。自分の存在がここにあるということを、実感させて欲しい。それはレナードの唯一の願いだった。
唯一でありながら、それでも、諦めている、願いだった。
セレスティアはその日、王宮にいた。用のある父と共に王宮に上がり、他の貴族や王族達に挨拶をして回っていたのだ。途中、ランドル王子とも会った。
「兄上は出発したよ、セレスティア嬢」
そういわれたので、セレスティアははい、と頷く。
「兄から聞いております。つつがなくご出発されたそうで、無事のお帰りをお祈りしておりますわ」
「ありがとう。私もそれを願うばかりだ」
ランドルは相変わらずの、諦めたような曖昧な笑みをもらした。
「お父上ではなく、お兄さんから聞いているんだね。仲の良い兄妹のようで良いことだ」
「そう見えますかしら」
セレスティアは小さく微笑を漏らし、小首を傾げた。
「わたくしたち、ほんの数カ月前まではまともに顔を合わせた事もありませんでしたのよ」
「……え」
ランドルは少し意外だ、というように呟いた。セレスティアは言い添えた。
「セ……アースさんが、会わせてくださったのです。あの方はお兄様のお友達ですから」
「ああ」
ランドルは一瞬何かを考えるように黙り、ポツリと言った。
「それでは、レナードも身内と距離がある人なんだね」
「……そうかも知れませんわね」
セレスティアは答えながら、ああ、まただ、と気付いた。第二王子は自分自身と兄を重ねるのが好きらしい。それはセレスティアにとって、少々不安を感じることだった。負の方面の共感でできる結び付きには、不安を感じる。それが例え安らかな気持ちを与える結び付きであっても、だ。共に転がり堕ちそうで、怖い。
「けれど、わたくしは」
だから、聞かれてもいないけれど、こっそり付け加えた。
「近づく努力をしたいと思いますの。お兄様は自分から歩み寄るという発想自体がないようですから」
言ってセレスティアは一歩ランドルに近づいた。ランドルは一瞬、微かに戸惑うように目を泳がせたが、ただ少し困ったような笑みを浮かべたままセレスティアを見つめている。
「……でも、足掻いてみたのかもしれないよ。だめだとわかったから、止めたのかもしれない」
「そうですわね」
セレスティアは認めた。家の言う通りに生きてきた自分にも、全く身に覚えがないわけではない。
「また足掻いても失敗する可能性の方が大きく思えますものね。けれど、全て楽しんでしまえば良い気がしてきましたの」
「……それも、ヴェルハント殿とシェーンを見ていた結果?」
「それもありますけれど、自分も少し実践してみたら、とても楽しかったのです」
セレスティアは微笑んだ。
「わたくしはお兄様がいらっしゃる方が、もっと楽しいと思いますの。だってきっと、お兄様はわたくしの大切な人になりますわ。大切な人と過ごすのは楽しいではありませんか」
「……それは、不思議な理屈だ」
言って曖昧な笑みを漏らしたランドルだったが、少し息をついて続けた。
「大切な人、ね」
「はい。わたくしにとって、楽しい時間を、共に過ごせる方という意味です」
「……貴女は、存外ヴェルハント殿と同じくらい、貴族として変わり者のようだ」
セレスティアはくすりと笑った。
「そうかもしれませんわ。……驚きまして?」
「どうだろう」
ランドルはどこか、はにかんだように笑った。
「私は変わり者のほうが好きなのかもしれないから」
セレスティアは意外な切り返しに、本の少し言葉を詰まらせた。これは第二王子がかなりの一歩を、こちらに向かって踏み出した瞬間であったように思えた。けれど見上げた王子の表情は、相変わらずどこか遠くに向かって微笑むような曖昧なもので。
「……そのお答えが、わたくしにとっては少し驚きですわ」
そう答えると、王子はほんの少し笑みを深めて、その場を立ち去った。セレスティアは何となく、その後姿を見送った。
ハウエルが従者を伴って帰ろうとしていたところ、通りかかった応接間にセレスティアの姿を見つけた。声をかけると、公爵を待っているとの事だった。
「少しお話しません?」
ここ数日、彼女は兄に会っていない。だからだろう、彼女はそう二人に声をかけた。ハウエルは判断をレナードに任せた。彼はただ、指示を待っているだけだった。
「レナード」
「はい」
「君に聞いているんだよ」
え、というようにレナードは顔を上げてハウエルを見た。それから義理の妹に視線を向ける。セレスティアはほんの少し苦笑ともいえるような笑みを漏らした。
「お話するの、少し久々でしょう?お兄様」
少し戸惑うようにレナードは視線をそらしたが、すぐに、何も言わずに部屋に入った。ハウエルが先に席に着くのを待って、彼はセレスティアの隣に座る。
「話といっても、俺は何を話したら良いのか…」
「あら、報告だけでよろしいんですのよ。どなたにお会いしたとか、そのような」
二人の会話をハウエルは微笑ましく見つめた。本人は気づいていないようだが、レナードはセレスティアの前だと、自分から言葉を発することが多い。
「それなら、仮王陛下にお会いした」
「まあ、本当ですの?」
「うちに興味があるようだと、大尉が言っていた。セレスティアも気をつけたほうが良いかもしれない」
「そうなんですの?」
セレスティアは戸惑うような表情をして、ハウエルを見た。ハウエルは頷いてみせる。
「オーディエンね、と呟いていました。含みのある声色でしたから、セレスティア嬢も気をつけるに越したことはないでしょう。……もっとも、わたしはレナードが危ないと思うのです」
「お兄様が?」
セレスティアがわずかに身を乗り出す。
「お父様が、お兄様を疎んでいるから、ですの?」
「そうじゃないかと思います。つけ込む余地が有ると思っているんじゃないでしょうか。わたしだったら、そういう目のつけ方をしますね。疎まれているとはいえ、公爵家唯一の男子ですから」
ハウエルとセレスティアが同時にレナードを見ると、彼は困惑しているようだった。
「俺につけ込んで何か得でも……」
「お兄様……オーディエンの姓を冠していること、忘れないでくださいまし」
セレスティアが苦笑する。
「父上は俺に何が起きようと、オーディエンとして動く気はないと思う」
淡々と、彼はそういった。それを悲しく思うとか、そういう気持ちはないようで、ただ事実として告げるような口調だ。それでもセレスティアが説く。
「けれど、お兄様はわたくしのお兄様ですのよ。少なくとも、わたくしに対しては効力がありますわ。……お父様がお目にかけているわたくしに対して」
レナードは目を瞬いた。そういう観点から考えたことがなかったのだろうし、そもそもセレスティアが自分を大事に思っていること自体、意外だったようだ。
ですから、とセレスティアは微笑む。
「ご自愛くださいませ、お兄様。くれぐれも、お気をつけて」
「……」
レナードは声に出して返事こそしなかったが、小さく、小さく頷いた。
その二人を、ハウエルは見つめてわずかに溜め息をついた。微笑ましいというか、セレスティアの「大切な人」相手に発揮される力が空恐ろしいというか。その気になれば本当に国母になる器量のある少女だな、と思った。
そして、相変わらず危なっかしい従者を思って、少し不安に駆られるのだった。
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