胡蝶舞 * 壱 竹林のてっぺんは見上げるほどに高い。石畳の道を駆けながら、私は家の玄関が近付くのを見ていた。寄り道もしたくないくらい早く家に帰りたいというのは、友人達には理解できない感覚らしい。 鍵で玄関を開けて、私は声を上げた。 「ただいまー」 返事がない。お母さんもお兄ちゃんもまだのようだ。 『イタルなら裏にいるぞ、ユコ』 声が聞こえて、私は辺りを見回した。 「ケン? いるの?」 『ケンじゃないって言ってるだろう。花洛だ。名前ぐらい覚えろ』 声はそこで、気配と一緒に消えた。機嫌を損ねてしまったみたい。妖狐とは言っても狐には変わりないんだから、ケンケン鳴くならケンでいいじゃないの。 ともかく私はかばんを戸口に置いて、裏に回ろうとした。踵を返したところでまたケンの声がした。 『ユコ、ちょい手ぇ出せ』 「へっ? 何、何? また悪戯されるなら嫌だよ?」 『違ぇよ、客だ。イタルのところまで運んでやってくれ』 客と聞いて、私はびしっと気をつけをした。 「はいっ、任務遂行いたします!」 『へんな気取り方をするなよ』 「えーっ、大真面目だよ」 『とりあえず、手ぇ出せ。こいつめ、殻が割れるから俺には運んでもらいたくないんだとさ』 「……か、殻?」 『蝶のサナギなんだ』 私は固まった。正直、虫の類いは苦手なのだ。 「サ、サナギですか……」 『人のほうが安心できるから、人に運んでもらいたいんだとさ。お前の手に乗せてやるためだけなら、俺がこいつを咥えるのを許してくれるとよ』 「は、はぁ……」 『んだ? 虫ごときが怖いのか』 『失礼ですね、虫ごときだなんて。私は立派に蝶になる予定だったのですよ』 別の声が聞こえたから、たぶんそれがお客さまの声なのだろう。 『初めまして、ユコさま。やりたかったことをやり残してこんな妖怪になってしまった私ですが、イタルさまが、私が成仏できる最後の希望なのです』 切々と、蝶の声が言う。 『どうか私をイタルさまの所まで運んではくれませんか』 私はちょっと怖じけついたけど、でもお客さんのためならえんやこらだ。 「はいっ。どうぞおのりください、お客さま」 ケンが動いた気配がした。 『乗せたぞ、ユコ』 私はとりあえず開いた両手を目の前に持ってきてみた。何も見えない。声だけが聞こえるのは不便だなぁ、と思った。 『よろしくお願いします』 お客さんの声がしたので、私は笑って答えた。 「はいっ。ようこそ、更科妖相談房へ」 それから私は、なんとか安全にお客さんを運ぼうと努力してみた。“裏”というのは離れの縁側に違いない。彼はいつもあそこに座ってぼんやりしているのだから。ただ、私にはお客さんの姿が見えないし、感触も感じられないから、落としてしまわないかどうか心配で、ケンに監視役として付いてきてもらった。庭の植木をすり抜けながら行くと、彼が縁側に座ってぼんやりしているのを見つけた。 ……何て絵になる光景だろう。彼は微笑んでいて、竹林を通ってきたそよ風に柔らかな髪をそよがせていた。 「届くん」 呼びかけると、彼はちょっとだけこちらを向いた。 「ああ……お帰り、癒子」 「ただいま」 届くんは私の手元に目を止めた。 「何? それ」 届くんにははっきりとお客さんが見える。 「蝶のサナギさん。お客さんなの」 『初めまして』 お客さんから声がした。 『200年間、さなぎのままで死んでしまった無念を抱えておりまして、イタルさまのお力を借りとうございます』 「……はい、依頼ですね」 届くんは答え、ゆっくりと立ち上がった。 「更科妖相談房の主人として、全力を尽くしましょう」 届くんが手を差しだすので、私は慎重に、届くんの手のひらの上で手を傾けた。 『あー、ユコ、もうちょい右だ』 ケンの声に慌てて手の位置をずらす。私にはお客さんが見えないし、届くんには私も自分自身の体も見えない。ケンがいつも、私たちのそれぞれの、見えている“世界”の仲介役だ。ケンはぶっきらぼうで口が悪いけれど結構お人好しだったりする。 『おし、上手くいったぞ』 それを聞いて私はやっと息をついた。届くんはお客さんを持ち上げて、聞いた。 「事情を伺っても? なぜ、200年もの間、三途の川を渡れないのですか」 お客さんの溜め息が聞こえた。 『……果たし損ねた約束がありまして』 「約束、ですか」 届くんは少し首を傾げて、また聞いた。 「誰とのですか」 『もう亡くなった方です。小さな、人間の男の子でした』 「人間?」 『はい。酔狂にも、木から落ちた私を引き取って、毎日新鮮な葉を与えてくれたのです』 声には愛おしみが込められていた。きっとお客さんはその男の子が大好きだったに違いない。 『でも男の子の両親は、私のような虫けらを世話するのには大反対でした。それでも男の子は、両親に反発しながら毎日新しい枝を探してきては私に与えてくれたのです。おかげで鳥に襲われることもなく、私はすくすく育ちました』 そしてお客さんは、お客さんの物語をとても詳しく話してくれた。 Copyright © 2007 Kaduki Ujoh all right reserved. |