胡蝶舞 * 伍

 届くんが何か話しかけてくるのがぼんやりと聞こえた。
「あなたが、昔イモムシを育てて、火事でそれを亡くしてしまった方ですか?」
 私のうちの半分が、戸惑った。どうしてここにいるのか分からない感じだ。
「はい」
『ああ、あなたなんですね……!』
 お客さんは感激して叫んだ。
『本当にあなたなんですね! 私ですよ、そのイモムシです。サナギのまま死んでしまったイモムシです』
 私の中の半分も、感激していた。お客さんがもう私にお代を払ってくれているのか、私には届くんが見る世界が見えていた。
 お客さんは届くんの前にいた。お客さんってこんな形をしてたんだ、と元の方の私が思った。けどもう半分の私は、その形を、強烈に懐かしいと感じていた。
「お前なの?」
 もう半分の私は震える声で言った。小さな男の子に戻ったような気分だ。
「お前と話せる日が来るとは思わなかった!」
『このように、妖と化してしまったもので。こんな形でお話しするなんて、なんだか皮肉ですけれど』
 お客さんは苦笑するような声だ。もう半分の私はううん、と首を横に振った。
「どんな形でもいいんだ。ずっと……」
 私の目から涙が零れた。
「ずっと、謝りたかったんだ」
『あなたが、私に、ですか?』
 お客さんは不思議そうに聞く。もう半分の私は激しく頷いて、涙があふれてくるのを感じた。
「おいらがお前を家の中なんかに連れ込んだせいで、お前を蝶々にしてやることができなかった……ごめん、ごめんな」
『そんなこと。もしあなたが私を拾ってくれなかったら私は木から落ちた時点で死んでいました。本当に感謝しています』
 涙が止まらない。私は頬を拭いた。
「本当にそう思う?」
『はい。あなたに出会えて、幸せでしたから』
 もう半分の私と、私自身も、笑った。
「よかった」

 届くんは何も言わず、お客さんの傍に屈んで、何かを唱えながら呪を施し始めた。お客さんが代わりに説明する。
『こちらは更科妖相談房のご主人のイタルさまです。これからこの方のお力をお借りして、約束を果たします』
「約束を……?」
『はい』
 届くんは準備が終わったらしく、立ってケンに何か指示を出している。お客さんが、決意に満ちた声で言った。
『どうか見ていてください。私が天下一の蝶になる瞬間を』

 届くんの術が始まった。最初はさっき、今の私の中にいる人を呼び出した時と同じ感じだった。風景が歪んで、暗くなって、大きく穴が開く。届くんは呪を唱え続け、ひっきりなしに印を切っていた。届くんがすごく力を使っているのが感じられる。ごうごうと穴から風が噴き出してきて、がさがさと木の葉を舞い上げている。
 突然、ぐにゃりと穴の中身とこちらの風景が混じって何もかもが曲がった。私も、もう半分の私も、届くんのやることをただ呆然と眺めていた。

 お客さんが、硬い殻の背中を破り始めていた。ゆっくり、ゆっくり、でも私には時間の流れが感じられなかった。
 お客さんはついに全身を殻から出した。しわしわの黒いハネがついた蝶だ。そしてまたゆっくり、ゆっくり、ハネを広げていく。見たこともないような、色鮮やかな綺麗な綺麗な、大きな蝶。黒の縁取りはアゲハチョウのようだけど、瑠璃色と翡翠色のタマムシのような光沢が、夢のような輝きを放っていた。
「ああ……」
 半分の私が感嘆した。
「天下一の、蝶だ!」

『イタル』
 同時にケンが叫ぶ。
『藁人形の方も今だ!』
 届くんが頷いて、表情を歪めた。苦しそうだ。混じり合った空間を支えると同時に、封印も解かなきゃいけないのだから。とてもたくさん、力を消耗しているに違いない。私は心配でたまらなかったけど、今はとりあえず、もう半分の私が気分よく私の中に居続けられるよう頑張るしかなかった。
 届くんは藁人形を取り出すと、地面に置いて、また立ち上がって、すっと人差し指と中指で挟んだお札を掲げて呪を唱えた。ぱぁんと封印が弾けるのと、大きくハネを広げたお客さんが飛び立つのは同時だった。封印を解かれ、怨念も祓われた何千、何万もの蝶たちが一斉に舞う。穴が急激に収束して、届くんが徐々に力を抜いていった。同時に、心底満足し、嬉しそうに、私の中から半分の意識が消えていった。

 意識がクリアになった私は、上を見上げた。
「うわぁ……」
 思わず呟いた。下から吹き上げる風が、私の制服をなびかせる。
「すごい」
 届くんも呟いた。それくらいに壮観だった。
 色とりどりの蝶たちが、天へ天へと上っていく。ぱさぱさと柔らかなハネが空を切る音が、喜びの歌に聞こえた。
 辺り一面、蝶、蝶、蝶。赤いもの、黄色いもの、青いもの、黒いもの、丸いハネにとがったハネ。どれもがぼんやりと光をまとって輝いていた。あまりに美しかった。

 いつの間にか辺りは静まって、明るさが戻ってきていたのに、私も届くんも、ケンまでもが、最後の蝶が視界から消えた後も呆然と空を見上げていた。



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