見える世界 * 参
聞こえた。明らかに「そういうの」の声だった。私は皆の顔を見る。皆には聞こえてないみたいだ。私は勇気を出して叫んだ。
「みんな、逃げて!」
その瞬間に、竹林の奥から風が吹いてくる音がした。普通の風じゃない。この音は皆にも聞こえたみたいで、皆揃って駆け出した。みんな叫んでいた。悲鳴を上げていた。……食べられる!
そのとき、目の前に白いものが飛び出してきた。
「癒子!」
「い、届くん?」
散歩コースから外れたここで何をしてるんだろう。けれど、届くんの顔を見た瞬間、私は安心していた。知らせようと思って叫ぶ。
「届くん、なにかいるの!」
「知ってる」
届くんは言うと、逃げる私たちとは逆方向に走っていった。私たちを背後に庇うようにして、叫ぶ。
「相手は俺だ! 止まれ!」
私も皆も驚いて、その場に立ち止まった。……届くんなら勝てる類の妖らしい。
ぶわっと、風が私たちの目の前で止まった。そして、驚いたことに、その妖は姿を現した。とっても大きな狐のような妖。真っ白い毛並みに、額には赤く模様がついていた。
「妖狐だ……」
私が呟いた隣りで、みんながまた悲鳴を上げた。見た目は確かに怖いし、実際、いったいどれくらい強い妖狐かわからないけど、狐って強いのが多い。届くんは、勝てるのだろうか。私は皆を振り返って言った。
「皆、先に行ってて。私は届くんのお手伝いをする!」
「ええっ!?」
みんなが驚いた。
「ユ、ユコちゃん、危ないよ!」
「こんな化け物がいるんだよ!? 逃げなきゃ!」
「届くんは目が見えないの!」
私も叫び返す。
「私が、届くんの半分の世界を埋めてあげるんだもん!」
私は届くんの側まで駆け戻る。夜に外出するときはいつも持って出る、何かあった時のために用意してある色々な道具を取り出した。
「届くん、お札!」
「ありがとう」
「それから、香木!」
「うん」
『食わせろ』
妖はもう一度言った。
「食わせるわけにはいかない」
届くんは宣言し、お札を掲げて何か唱え始めた。私には全然意味の分からない言葉。するとふわりと蛍たちが集まってきた。私は驚いた。届くんはやっぱり蛍と縁があるのかもしれない。
妖狐はぐ、と呻いた。ぐぐぐ、ぐぐぐぐうぅぅぅ。正直、背筋の毛が立つくらい怖い。でも届くんを置いていくことなんてできないので私は逃げ出したいのをこらえて届くんの側にいた。
妖狐はというと、徐々に縮んでいく。私たちが見ている前で、どんどん縮んでそれはふつうの犬くらいの大きさにまでなった。しかもなんだか苦しそうにじたばたしている。
『や、やめろやめろ、参った、もうとめてくれ、苦しい!』
なんとそんなことを言っている。私も届くんもきょとんとした。なんだか思ったのとはちょっと違う類の妖みたいだ。届くんは妖狐を見つめ、聞いた。
「……やめてたらお前はもうこんなことはしないか?」
『し、しない、しない』
「では、名を名乗れ」
『か、カラク……花に洛陽の洛だ』
「よし、花洛」
届くんは言って、妖狐を縛っていたらしい何かを解いた。狐はぜいぜいと荒い息をしながら立ち上がる。
『……酷い目にあったぜ。厄介なのに会っちまったな。お前がこの辺で有名な、目の見えないくせに妙に強い小僧か』
「……どういう噂だそれは」
届くんはあまり嬉しくなさそうに言った。狐はやれやれと首を振る。
『まあいいさ。約束だからな、お前たちにせびるのは諦める。餌場を移すしかなさそうだな……やれやれ、今日は厄日だ。食い物にありつけない上に名前まで知られた。くそう……』
ぶつぶつ文句を言いつつそのまま竹林の中に帰っていこうとするので、私は思わず呼び止めた。
「あ、あの……」
『あ? 俺か?』
「そう」
狐さんは私を見つめた。
『へえ、あんた、聞こえんのか』
「う、うん……あの、お腹空いてるなら、なにかあげようか?」
「癒子」
届くんが慌てたように私をさえぎる。
「それで魂とか人肉とか言われたらどうするんだ」
「それはあげられないけど……ふ、普通のお肉とかなら」
『甘いものはあるか?』
「……へ?」
私はきょとんとした。妖がそんなことを言うのがとても意外だった。狐さんは私を見ながらもう一度言った。
『甘いものだよ。さっきお前ら、お菓子とか言っていたじゃないか』
私はあきれてしまった。とことんへんな狐さんだ。それで「食わせろ」なんて言ったんだ。てっきり私たちを食べたいのかと思ってしまった。友達が皆呆然としているので、私は通訳をすることにした。
「……甘いお菓子が好きなんだって。食べたいって言ってるんだけど」
「え……あ、うん、それくらいならあげてもいいんじゃない?」
あんまり考えて答えてないみたいだったけれど、みんなも拍子抜けしてるのだろう。みんなの了解も取れたし、どう見てもあまり危ない妖にはもう見えなかったので、届くんの監視つきで家につれて帰ることにした。
妙なのに会ったこと、お腹をすかせてること、甘いものが好きらしいことを言うと、お母さんは目を白黒させつつお団子を出してきてくれた。狐さんの前に出すと、狐さんは大喜びだった。
『こんなの食べたの何十年ぶりだぜ!』
ものすごく嬉しそうで、なんだか本当に気が抜ける。全然怖くない妖だった。
「始めからちゃんと頼んでくれれば、普通にあげたのに。どうしてあんな怖がらせるようなことするの?」
私がふくれっ面で聞くと、最後のお団子をぺろりと口に入れた狐さんは口をもぐもぐさせながら言った。
『今まではそれが一番効率的だったのさ。脅すと大抵なにか食べ物を放り投げて逃げていってくれるから』
「…………」
やれやれだ。届くんも呆れているみたいだった。
「お前、でも、それなりに力のあるやつだろう」
『おうよっ、久々に人間とやりあったからな、勝手が思い出せなかったのさ。今度お前とやりあう時は負けないぞ』
「名を知られているのにか」
『むぐっ……』
やっぱりどこか抜けている妖さんみたいだ。私は思わず噴き出した。今まで色々な「そういうの」さんに出会ってきたけれど、こんなのは初めてだ。
「おもしろいねぇ、狐さん」
『妖狐だ。そこらへんの狐と一緒にするな』
「ねえ、狐みたいに鳴いてみて」
『……何の真似だ』
「ケンケンって鳴くの?」
『知るか』
「ケンって呼んでもいい?」
『冗談じゃねぇ』
やっぱり思わず笑ってしまう。どうにも人と近い妖みたいだ。なんだか可愛いなと思って、私は言った。
「ねえ、今度からお腹が空いたらうちにおいで。食べ物をあげるよ」
『本当か!』
「……癒子」
狐さんは私を見て尻尾を振る。届くんはちょっと心配そうだった。
「人懐っこく見えるけど、一応は妖なんだよ」
「でも、届くんが名前を握ってるんだし」
「そうだけど」
「それに、こんなに言葉がしゃべれる妖って珍しいよ。ねえケン、文字は読める?」
『花洛だ。……読めるが、何か?』
「ほらね、学校とかでお手伝いもしてもらえるし」
届くんは少し考えた。狐さんはお手伝いと聞いて声を上げる。
『冗談じゃねぇ。なんで俺が人間の言うことなんて聞かなきゃいけないんだ』
「おいしいお菓子のためだよ」
『…………』
この狐さんは本当にお菓子が大好きみたいだ。なんか可愛い。届君が口を開いた。
「花洛」
『なんだ小僧』
「呼んだら来てね」
ケンは返事をしなかったけれど、聞かないわけにはいかないだろう。
「そ、それで、結局その狐は飼うの……?」
おそるおそるさっちゃんが私に聞いた。
「なんか癒子も届くんも狐と話してたみたいだけど」
「うん、届くんのお手伝いをしてくれると思う。もう怖くないよ。名前を聞き出して字も分かると、大体の妖は言うことを聞いてくれるの」
「へ、へぇ……」
皆まだおっかなびっくりだったけれど、ケンを興味津々でみんな見ていた。さっき、あんなに大きくて怖い妖だったなんて信じられないくらいだ。
そんなこんなで、その狐さんは届くん専用のお手伝いさんになった。
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