08:初授業

 あいにくその夜は曇りだった。珍しく曇った。
 この辺は一年のほとんとが晴れることで有名で、だからこそ研究都市になっているのだが、今日は曇った。

 だがポプリは嬉々とした。確かに天体観測はできないが、コレットの部屋に忍び込んで、夜中まで二人で語り明かせるというわけだ。さすがのロゼットも女子寮の寝室にまでは入って来ないだろう。

 貴族の子女が多いだけに、寮の設備も豪華である。一人で使うのにダブルベッドくらいはある大きなベッドは天蓋付きで、ポプリとコレットはパジャマ姿でベッドに座り、クッションを抱えた。
「こんな風に過ごすのも久しぶりだねぇ」
 コレットはニコニコと言った。
「家にいるよりより寮での生活の方が長いからかな、寮にいる方が落ち着くよ」
「そうね。私もよ」
 ポプリは言って笑った。むしろポプリは王宮で過ごすのが嫌いだった。過保護のくせにどうにも愛情が深いとは思えない両親、みっちりとスケジュールの詰まった公務、夜会。それに比べれば寮は天国だ。
「ねぇ」
 コレットがポプリを上目遣いに見上げた。
「ロゼのこと、教えてくれないの? わたし、やっぱり気になるの。さっきもわたし、ポーちゃんのこと聞かれたんだよ」
 ポプリは少しだけ笑顔を引っ込めて、コレットを見つめた。
「ロゼットが? 私のことを? 何を?」
「王女だっていうのは知っているのか、って」
 ポプリは歯噛みした。ロゼットは明らかに何か探っている。
「……コレットは、なんて答えたの?」
「わたし、ロゼが知ってることにびっくりしちゃって、何も言えなかった」
 コレットは言いながら少しうつむいた。
「ねえ、何があったの。ポーちゃん、ロゼが相手のときだけ態度がおかしいもん」
「おかしい?」
「とっても怒りっぽくなるの」
 それは元来の気の強さ故に嫌いな相手に向けられる、ポプリにとってはごく一般的な態度なのだが、逆にポプリが一心にかわいがって愛情を示すコレットが、そのポプリの一面をあまり知らないというのも無理のない話だった。
「いや、それは、別にロゼットだけが相手じゃないんだけど……」
「でも、やっぱり変だよ。ただ嫌ってるんじゃなくて、ポーちゃんは絶対にロゼを警戒してるんだもん」
「そりゃ……だって」
 コレットに隠し事はしたくない。そう思ってコレットだけには真実を話してしまおうかと思ったポプリは、すぐに口を閉じた。言ってはいけない、と瞬時に思った。
 なぜならコレットは……だ。ポプリの被害者とも言えるのだ。そして星の羅針盤のことを明かすというのは、羅針盤が自然と引き寄せる数々の波乱にコレットを巻き込むことを意味している。羅針盤が危険なものだということは、ポプリだって百も承知なのだ。自分ひとりなら、どんな危険だって乗り越えて見せる。けれど、コレット巻き込むわけにはいかない。

「……ごめん、コレット。こればっかりは言えない」

 ポプリの言葉に、コレットは心底驚いたように目を見開いた。
「ポプリ……そんなに、大変なことなの?」
「うん」
「……また、一人で抱え込むんだね」
「ごめん。でも一人で抱え込むのは、私がそうしたいからなの。私のわがままなの。……聞いて、もらえるかな」
 コレットはしばらく俯いていたが、やがて顔を上げて、ポプリの愛してやまない、信頼に満ちた瞳で微笑んだ。
「うん。分かった。ポーちゃんを信じる」


**********


 久々にコレットと心ゆくまで語り明かした次の日は、新学期初めての授業の日だった。休暇の間に生徒を怠けさせるのを良しとしない教師が出した課題と、今日の授業の教科書をカバンに詰め込んで、ポプリは寮を出た。すぐにユルバンとコレットが追いかけてくる。ロゼットはもう先にゴンドラで待っていた。ロゼットと一緒に登校しなければ行けないことを甚だ不愉快に感じたが、徹底無視することでポプリはやり過ごした。彼も別に、無理にポプリと絡もうとはしなかった。
 しかし、取っている授業が完全に同じとなれば当然行動も一緒になるわけで。
「…………」
「…………」
 無言で一緒に教室に向かう、この状況のなんと重苦しいことか。守護獣は教室に入るのを許されていないので、パルファンもいないし。しかも極力離れて歩こうと思ったのに、ロゼットはぴったりついてきた。何が何でもポプリを見張るつもりらしい。これが続くようなら自分の教師の間での評判のよさを武器に、ストーカーとして訴えてやろうとポプリは誓った。
 教室に入ってもロゼットとはなるべく離れて座った。すぐに教室は生徒で埋まり始め、やがてベルが鳴って教師が入ってきた。
 魔法図形学が今学期最初の授業だった。担当するのはティエリー教授。教授も姓を名乗るのは良しとされていないので、ティエリーはファーストネームだ。彼は教授陣の中でも重鎮な方で、すでに初老に差しかかってはいたが精力は若い生徒たちにも負けないほどだった。
 始めは、いつもの授業だった。課題を提出して、魔法に使う図形の仕組みや図形の持つ力、それぞれに秘められた神話的な意味に関する教授の講義を一方的に聴く。しかし最終学年になったから、と言って教授が突然、実践をやろうと言い出した。いったいどれだけ、生徒たちが図形のことを理解し、応用できるか確かめたいのだと言う。
 そしてそれに、ロゼットが指名された。
 ロゼット、と教授が呼んだ聞き覚えのない名前に、生徒のほとんどが振り向いて、教授が指差した少年を見つめた。
「君、編入生だろう。さっそくだがお手並みを拝見したくてね。どうだい、やるかい?」
 注目されてもロゼットは平然としていた。ほんの一瞬黙っただけで、すぐに頷いた。
「はい」
「よし、ではせっかくだし、対戦形式を取ろうか。誰か、ロゼットの相手をやりたい人は?」
 ロゼットの視線を感じたので、ポプリは死んでも手を上げてたまるかと思った。幸い別の生徒が自ら名乗り出てくれた。ティエリー教授はその生徒を指した。
「よし、ではアロワ。君が編入生くんの相手だ」

 みんなががやがやと教壇の周りに集まった。
 ロゼットの向かいにアロワ少年が立ち、二人は同時にしゃがんで魔法陣を描く準備態勢に入った。ティエリー教授の声が響く。
「開始!」
 二人はものすごいスピードで、指で床をなぞり始めた。なぞられた跡は薄く青色に光る。大きな円の中に内接する星が描かれ、加えて様々な図形と記号が書き込まれていった。
 書き込まれた記号やその場所によって、魔方陣の働き方は違ってくる。それを良く知っていたからこそ、ポプリはロゼットの描く魔法陣の精巧さに目を見張った。民間で、一体どうやってこんなものを勉強したんだろう。それとも、自然にコツを覚えてしまうほど実践を積んでいるのか。
 先に魔法陣を書き終えたのはアロワの方で、彼は魔法陣の中心の円に手をついて叫んだ。
「ルソワ・ラ・ファキュルテ・デゼトワール、スィータイ! 海の怪物クジラよ出でよ!」
 くじら座が円の中心に出現して、まぶしい光を放った。次の瞬間には巨大な生き物が教室に出現して、生徒たちは悲鳴を上げた。
「アロワ、出すものを選べよ!」
 誰かがそう抗議する声も聞こえた。
 一瞬で教室を占領したのはひどく醜い怪物で、本物のくじらとは似ても似つかない。どちらかというとドラゴンみたいだ。大きく裂けた口には牙が覗き、ぎらぎらと目を光らせ、くじらのくせに何故かついている前足には鋭いつめが光っていた。その怪物は慌てふためく生徒たちを見て、口をあけて、弦楽器の弦を引っかいたときのような鳴き声を出した。アンドロメダ姫はいないが、神話の通りに生け贄を食べに来たかのような風情だ。出した本人のアロワも少し怖気ついたようで、一瞬後悔するような表情を顔に上らせた。
 誰かがこの怪物に食べられてしまう、なんて状況を回避してくれないかと、みんながロゼットに注目する。ポプリも怪物からロゼットに視線を移した時、彼の魔方陣も仕上がったようだった。よくこんな混乱の中で、怪物には目もくれずに魔方陣が書けたな、とポプリは別のところで感心した。
「ルソワ・ラ・ファキュルテ・デュ・ソレイユ、パーセイ・エ・ペガサイ! ペルセウスの討ち取ったメドゥーサの力をここに! 石になれ!」
 ロゼットが叫ぶと、魔法陣の中にペルセウス座とペガスス座が同時に浮かび、天馬にまたがった英雄が飛び出してきた。その手にはしっかりと、うねる蛇の髪を持った醜い女の首。ペルセウスが討ち取った、見る人を石に変える力を持つメドゥーサの首だ。自分まで石になってはたまらない、と生徒たちはあわてて目を庇った。
 そして、化け物のうなり声が突然やんだ。その代わりペガススが飛び回っている気配がする。どやら怪物は神話と同じく、メドゥーサに石にされたようだ。しかしまだペルセウスがメドゥーサをぶら下げてそこらへんをうろうろしているとなると、誰も顔を上げられない。
「フィニセ・ロードル」
 ロゼットが呪文終了を宣言したので、やっとみんなが顔を上げた。巨大な怪物の彫像が目の前にあった。
「……これ、どうするんだろ」
 生徒の一人がつぶやいたが、誰も何も言わない。その中で、突然誰かが拍手を始めた。

「ロゼット、すばらしいよ!」

 ティエリー教授だ。一人興奮で頬が上気している。
「いやあ、ソレイユ呪文で二つの星座の力を同時に引き出した上に、君は正確にどんな力を使いたいのか宣言していた。しかも魔方陣は非常に正しく描かれていた。君は非常に優秀な生徒だ! 民間から編入してきただけのことはある」
 ティエリー教授がここまで生徒をほめるのは珍しいことだった。クラスでも今までほめられたのは、ポプリを含めたった数人。そのティエリー教授の心を、編入してきたばかりの最初の授業にして、ロゼットはつかんでしまった。ロゼットは照れたように微笑んで言った。
「そこまでお褒めいただくには及びません、ティエリー教授。これくらいのことはこの学院の生徒なら軽々とやってしまうのでは?」
「いや、そんなことはない。このクラスでは君一人だと思うぞ。すばらしい!」
 終業のベルが鳴った。ティエリー教授はあわてて、今日はここまで、と宣言する。生徒たちもあわてて、怪物の彫像をよけながらカバンを取りに行き、ザワザワと編入生の見せた魔法のことを噂しながら教室を後にした。誰もが驚きと賞賛、そしてう羨望に満ちたまなざしをロゼットに投げかけていく。
 ポプリは悔しくて動けなかった。何なんだ、あの桁外れの魔力は。ロゼットを見ると、ティエリー教授が彼に話しかけているところだった。
「放課後、わたしのところに来ないかね?」
 すっかりお気に入りだ。
 ロゼットがふと振り返る。ポプリの視線とぶつかって、彼は得意げににやりと笑った。ポプリは憤然として、カバンをひったくると、お化けくじらの彫像に蹴りを入れて教室を後にした。