10:立ち聞き
授業が終わった後、ポプリはロゼットを尾けていた。それはもう全神経を集中して、気付かれないように気をつけながら。
案の定彼はエルヴェ教授の研究室を訪ねた。さあ尻尾を出せ、と念じながらポプリはドアの外で聞き耳を立てた。
「おや、ロゼットじゃないか。何か用かい?」
エルヴェ先生の声だ。
「はい。今日の授業についての質問がありまして」
「なんだね」
「作り話のことです」
おや、とポプリは思った。随分と大胆に切り込む。
「真実か否かを見分ける方法はあるのか、と」
エルヴェ教授が苦笑を浮かべたようだ。含み笑いが聞こえた。
「真実というものは我々人間が見分けたり、見つけたりする類のものじゃない。そこにあるだけのものだ」
「ではなぜ先生は、作り話だと断定するのです」
「私の中では作り話だからだ」
「では、先生にそう思わせたのはなんですか」
ほう、と教授が呟いた。
「知りたいのか。異端になってもいいのか」
「信仰とはあくまで信じる心であり、規律を守ることが全てではないと俺は思っていますので。是非、知りたいです。神々を知ることが異端になるとは思いません」
エルヴェ教授が笑い声を立てた。面白い生徒だ、と判断したようだ。
「今のを腐った聖職者どもに聞かせてやりたいな。……君が気に入ったよ。特別に私の研究成果の一部分を教えてあげよう」
エルヴェ教授が立ち上がった気配があった。がさごそ音がするから、本棚を漁っているようだ。ポプリは少しむずむずした。エルヴェ教授の本棚の蔵書は学院でも屈指の謎なのだ。お目にかかれるものなら是非お目にかかりたい。しかし今は盗み聞きをしている立場なのだ。くそぅ、とポプリは歯噛みした。次に質問に来た時には絶対、見せてもらえるように誘導しよう。
「これは……いつの時代のものなのですか」
驚いたような声はロゼットのものだ。あの取り澄ましたロゼットが驚くほどのものが机の上にあるのだ。
「ざっと5000年ぐらいかな。ブリュンティエールのアテナ神殿から出てきた」
「5000年……」
「ギリシャ神教が世界宗教になる前は、世界各地で星の数ほど宗教が存在していたことを知っているかい?」
「はい。神々が本当に舞い降りてから、それらが紛い物だったということが分かった、という話ですね」
「それについては今は話さないが……多神教の多くでは、別々の神話で様々な神が同一視されていた。ギリシャ神教の中にも、他の神話から取ってきた神々が多くいることがこの文献から分かる。同じギリシャ神教のなかでも、ヘリオスがアポロンに、セレネがダイアナに取り込まれるなどといったことが起きていたんだ。神話は神々が存在した記録ではあり得ない。人が作ったものだ」
ロゼットは黙っていたが、驚いているだろう。ポプリも驚いた。そんな話は初耳だ。エルヴェ教授はさらに言う。
「例えば、愛の女神アフロディテの親と言ったら?」
「海の泡」
「と誰もが言うだろう。しかしこの文献にはゼウスとディオネだと書かれている。さて、どちらが正しいのだろうね。そして誰がそれを決めたのだろうね。実は、太古の文献を整理すると、ギリシャ神教以上に諸説が入り乱れて正解の見つからない、そして説が曖昧な宗教はない。今の説を定めたのは誰だ? 神々の存在については否定はしないが、神話は私には疑わしく思えるんだ」
「へぇ……」
ロゼットは本気で感心しているようだった。
「すごいですね、先生。……しかしこんな文献、探しても見つかるようなものではないでしょうに」
「そうだな。私は特別神々に愛されているようでね、嬉しいことに幸運が味方に付いてくれているらしい」
エルヴェ教授の言葉に、ロゼットは僅かにからかうように聞いた。
「……先生は一体、神を信じているのですか、いないのですか」
その答えはとても教授らしかった。
「信じていないが、信じている」
なんだか会話が終了しそうな気配だったので、ポプリは抜き足差し足でその場を離れた。予想どおり、角を曲がって息をひそめていたら、ドアが開く音がしてロゼットの声が聞こえた。
「ありがとうございました」
「いや。私の話が聞きたければいつでも来なさい。ただし、ほどほどにな。他の教授達や学長に目をつけられるぞ」
「目をつけられながらも先生は研究を止めないのでしょう?」
「それは私が学者だからだ。おまえは生徒だ、首を突っ込むのはほどほどにしておいた方が将来のためだぞ」
「……肝に銘じておきます」
「よろしい。じゃあ、また次の授業でな」
「はい」
「ポプリ?」
絶妙のタイミングで声をかけられたポプリは見事文字通りに飛び上がった。いつのまにか目の前に、授業中にロゼットと対戦した少年、アロワがいた。
「何をしているんだ?」
「あ、あなたこそ」
「見ての通り、歩いていただけだけど」
「わ、私だってそうよ」
「ずっと立ち止まってたじゃないか」
そこでアロワが言葉を途切れさせた。ポプリの背後のロゼットに気づいたようだ。
「あ! おまえ、あの編入生!」
「ロゼットだよ。呼ぶ時はロゼでいいから」
ロゼットは言って、ポプリを見た。
「盗み聞きか? 趣味が悪いな」
「だっ、誰が! あんたの声が聞こえたから、顔を合わせたくなくてここにいたのよっ!」
絶対信じてもらえていないが取り敢えず嘘をついておいた。ロゼットはへえ、と呟いて笑った。
「あんまりそういうことされると、俺は逆にあんたと顔を合わせないと気が済まなくなるかもな」
さらっと解釈に困る台詞を吐いて、彼はさっさと行ってしまった。
呆然と見送っていたら、アロワが少し驚いたように言った。
「おまえ、大丈夫か? 真っ赤だぞ」
「へ!?」
なるほど確かに頬が熱い。しまったやられた。
「弱点知られた!!」
ポプリは一声叫ぶと、一目散にその場を、ロゼットとは逆方向に駆け出した。
『……うぶな奴』
「うるさい、パルファン」
もとから早足だったのが、もっと早くなってほとんど走るような形になってしまった。寮からは少し遠いから普段はゴンドラで帰るのだが、大人しくゴンドラに座っていたら、間違いなく頭が真っ白になってしまうので歩くことにしたのだ。パルファンは溜め息をまじえてさらに言った。
『それくらいでそんなに動揺する奴、中等部にもいないよ』
「悪かったわね、免疫なくて」
『……そんなんだと将来困るよ』
「困らないわよ、結婚しないもの」
『恋愛をしちゃいけないとは誰も言ってないじゃないか』
「その時はもうどうしようもないわ。ダメなものはダメなんだもの、しょうがないじゃないの」
実はポプリは、恋愛免疫が皆無だ。ちょっとそれっぽいことを言われたりするだけで真っ赤になってしまう。相手が誰であろうとも、だ。そしてついでにパニックになる。ポプリの重大な弱点なのだ。
「うう……もしロゼットに気づかれてたら私死ねるわ」
『生きろ。ポプリは生きなければダメだ』
「……まじめに答えないでよ」
『じゃあ流せばよかったの?』
「それもいやだけど」
『……わがまま姫』
「なんか言った?」
『なんでもないです』
ため息をついてポプリは顔を上げた。
「エルヴェ先生の言っていたこと、本当かしら……」
神話など、作り話だと。
「だったらいいな」
『おいこら。王女がそんなこと言っちゃダメでしょう』
「私は元から信仰心のかけらも持ち合わせてないわよ。神様なんて信じてないし」
『……だから、そこからして問題だって言ってるんだよ』
「じゃあ何? 私に大人しく国のための犠牲になれって言ってるの?」
『……しょうがないんじゃない? 芳し姫だし』
「つれない守護獣ね。私は絶対嫌よ」
ポプリはカバンの取っ手を握り締めて、細い裏道に足音を響かせた。
「絶対嫌。理不尽じゃない、生まれだけで何もかも決められてしまうの? コレットの身にもなってよ、可哀相過ぎるじゃない。私は全部壊してやりたいの」
『知ってるよ……だから羅針盤が欲しいんでしょ』
「そうよ! ……あいつに弱点がバレてなきゃいいんだけど」
『話を聞くとどうやらポプリの反応を見る前に去っちゃったみたいだし、大丈夫じゃない?』
「ならいいけど。……ああもう、なんか私、意気込みばかりが空回りしてる気がする。もっと有効な手に出なきゃダメよね」
ぴくり、と獅子の背中が震えた。
『……何するつもり』
ポプリは少し考え、高らかに宣言した。
「寝込みを襲う!」
パルファンがその隣で、誰かが見ていたら哀れに思いそうなほどに肩を落とした。
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