15:取引

「ユルバン、高位の貴族だな」
 ロゼットは校内の神殿の鐘つき塔にいた。ヴァンがくわっと鳴く。
『あんまり信憑性のある情報だとは思えないけどぉ?』
「そんなことはない。だってポプリは星の一族を調べてた」
『あらら。結構鋭いんだねぇ』
「俺が星の一族を調べてるのかって聞いたら、ポプリはどうしてそれを気にするんだって言って来てさ。……ユルバンがその後でポプリに何か囁いてた。二人とも相当気にしてる。多分、俺のこと、ポプリはあいつに話してるんだ。ポプリが話せる相手なら、きっとかなり高位の貴族だ。どうやらあの王女様を見張るために学院に送り込まれた子みたいだよ。……あの王女様は嘘がへたくそだな。側近かって聞いたらぎくっとしてたよ」
『うーん、なるほどねぇ』
 ヴァンは首を傾げ、かったるい口調で言った。
『じゃあ、そのユルバンって子にターゲット絞るぅ?』
「ああ。もしかしたらどんぴしゃかもしれないしな」
 ロゼットはほくそ笑んだ。
「思ったより早く見つかるかもしれないな、“御三家”が」



 ポプリはエルヴェ教授の研究室を訪れていた。ちょうど授業についての質問があったから、今度こそ例の文献を拝む機会だ。
「教授」
 一通り質問が終わり、雑談もしたところでポプリは切り出した。
「ロゼットが言ってたんですけど、先生、すごく古い文献を手に入れたんですって? 私にも見せてくださいよ」
 教授は眉をひそめた。
「ロゼットに聞いたのかい? ……思ったよりも口の軽い子だったんだな」
 お、ロゼットの評価が落ちた。これは一石二鳥だ。
「私達、寮が一緒なんです。……教授、私には見せてもらえないんですか?」
 エルヴェは迷うような表情をした。
「君は貴族の家柄だろう。……立ち居振る舞いを見れば分かる。あんなものを見たら、いろいろ厄介だぞ」
 では、ロゼットは民間生だから見せたという訳か。
「かまいません。どうせ私は神様を信じていませんし」
 エルヴェは苦笑した。
「いいだろう。ただし、これ以上口外しないでもらいたいな。また異端を広めようとしていると言われてしまう」
「いまさらじゃないですか」
 ポプリがにやっと笑って言うと、エルヴェ教授もにやっと笑って返した。
 彼は本棚を漁り、棚の奥から慎重に、例の古文書を取り出した。ポプリは身を乗り出した。
「すごい……これ、パピルス媒体ですね」
「よく知っているな。書いてるのは古代ギリシャ語だ」
「少しは読めますから、大丈夫です」
「読めるのか」
「独学しました」
 教授は感心した顔をした。
「いつもながら、君の努力には感嘆するな」
「ありがとうございます」
 ポプリは笑い、パピルスに触れないように気をつけながら、古文書を読んでみた。
 内容は神話だったが、聞いたことのない話だった。しかもところどころ、言語力が追いつかなくて読めない。
「先生……ここどういう意味ですか」
「うん? ああ、それはつまり、神に捧げたという意味さ。興味深いだろう。もともとギリシャ神教は世界宗教ではなく、一地方の小さな宗教に過ぎなかったんだよ。だから、大昔にギリシャが実在していた場所の風土を色濃く反映しているんだ。たとえば、ギリシャ周辺でしか一般的に食べられていないものが平気で出て来たりね」
「へえ。面白いですね」
「ああ。一番驚くべきなのは、宗教ではなく神話の形としてだけでも、今まで伝えられ続けて来たって事だろうけどね。他の宗教が世界中で勢力を伸ばしていて、ギリシャ神教が異端とされていた時代ですら、消えてなくなることはなかった。むしろ絵画に好んで描かれたという文献が残っている」
「ギリシャ神教が、異端?」
「そうだ」
「いつの時代でも受け入れられていたんだと思ってました」
「我々は多神教の世界に生きているからね、少し神が増えたって気にしない。一神教ではそうはいかないだろうさ」
「なるほど……」
 ポプリは感心して、もう一度パピルスを見つめた。
「どうだい? 君の知的好奇心は満足か?」
 教授が微笑んでポプリに聞いた。ポプリは頷いた。

 ありがとうございました、と頭を下げて教授の部屋を出て、角を曲がった瞬間にポプリは奇声と呼べるような悲鳴を上げてしまった。
「なんであんたがここにいるのよ!」
 ロゼットが意味ありげな表情で角に立っていたのだ。
「君の真似をしていただけだけど。悪い?」
「真似って」
「ついでに俺も盗み聞きさせてもらったよ。君がとことん神を信じない主義なのはよく分かった。それで王女って大丈夫か?」
「余計なお世話よ」
 ロゼットはにやっと笑っただけだった。
「まあ、俺にとっては面白いけどな。他にも君のことで気になることは色々あるし。……たとえば、俺はてっきりあんたが国王か誰かに協力を仰いで羅針盤を奪いに来ると思って、それに備えてた。でも君は全部一人で抱え込んで、一人でやろうとしてる。唯一協力を仰いだユルバンでさえ羅針盤のことは知らないみたいだったし? 他の人に話したくない理由でもあるのか」
 ポプリはロゼットを睨み返した。
「あんたの方がよっぽど素性が知れないじゃないの。私はあんたが会いたがっている人が誰なのか、私の人脈を利用したがる理由は何なのかも知らないのよ」
「そりゃあね、俺の行動はあんたよりは監視されていないし。庶民のプライバシーは守られ易い」
「……不公平だわ」
「権力で平民を圧迫してるんだから、それくらいの代償は支払え。……それで、君は神々のことを調べてどうする気なんだ?」
「あんたが言ったら私も言うわ」
「俺は単に羅針盤のことをもっとよく知りたいだけさ」
「羅針盤と神話がどう関係あるのよ」
「教えない」
「じゃあ私も教えない」
 ロゼットはさらににんまりと笑う。
「いいのか? 俺は君の弱みを握ってるんだぞ?」
「何の話」
 ポプリはさらに一歩下がる。するとロゼットは一歩近づいて来た。
「覚えがないならなんで逃げるんだ?」
「逃げてないわ」
 さらに一歩下がる。やっぱり近づいて来た。
「なんで来るのよ!」
「君が逃げるからだろ」
 きびすを返そうとして腕を掴まれた。
「叫ぶわよ!」
「叫べば良い。たった今結界を張った」
 ポプリは頭上をドーム状に覆っている魔方陣を見て仰天した。パルファンが外で何か叫んでいるが聞こえない。
「だ、だって魔方陣を書く時間なんてなかったわ!」
「実力の差だよ。思い知ったか?」
「冗談じゃないわ! ここから出して! 変態! すけべ!」
 言った側からまた近付かれ、手を握られて顔が近づく。ポプリの思考も動きも停止した。ロゼットは面白そうに笑んだ。
「本当に免疫ないんだな。将来どうやって嫁に行く気だ?」
 怒りで思考と動作を復活させたポプリはどうにかロゼットの腕の中から抜けだし、結界の内壁に張り付いて言った。
「と、取引をしましょう!」
「取引?」
「そうよ、取引。取引を、しましょう?」
 一生懸命に息を整えて、ポプリはロゼットを正面から睨んだ。なるべく凄めていると良いのだが。
「あんたは願いどおり、今この学院にいるでしょ。私があんたの願いを聞いたんだから、あんたからの、私への見返り。私が何をしようとちょっかい出さないで。今みたいにわざとからかうのも禁止! そのかわり、あんたが欲しがってる人脈とやらを提供してあるわ」
 ロゼットは黙ってポプリを見つめていた。すぐに否定しないということは、それなりに魅力的な申し出だったに違いない。それで、さらに言ってみた。
「なんなら、休みの時とかに王宮に招待してあげても良いわよ。場合によってはお父様の目にとまるかもしれないのよ。でも、とにかく私がすることは黙って黙認してちょうだい。盗まれない自信があるなら問題ないでしょ?」
 この言葉にはロゼットのサファイアの瞳が、ほんのわずかだったが、揺らいだ。ポプリは最後の一押しをする。
「それとも少しは警戒してくれるの? いつもバカにしたようなこと言ってくるくせに」
 すると挑発にのって来た。
「警戒もバカにもしてないけど」
「……何よそれ。その価値すらないって事?」
「好きなように解釈すれば良い。でも、その取引は乗った」
 内心少し不安だったので、ポプリは心の中でガッツポーズをした。
「お互い、取引のことは口外しないのよ」
「口外する相手もいないし」
「……守護獣のネットワークを使って口外するのも禁止よ」
 ロゼットは肩をすくめた。
「先回りされたか。やっぱ少しは警戒する価値があるかもな」
 そして手を差し出す。
「二度目の取引の成立だ」
「気安く握手なんか求めないで。あんたと馴れ合う気はないわ」
「……さいですか」
 ロゼットは気分を害したように手を引っ込めた。

 ポプリは腰に手を当て、要求した。
「さあ、お互い同意したんだし、この結界から出してよ」
 うーん、とロゼットは笑った。
「どうしようかな。あんたをからかうのがすっごい楽しいのに気付いたんだよな。あんなことやこんなことをしたらどうなるのかとか、今のうちに試しておいた方が……」
 ポプリは思いっきり、靴のかかとの硬い部分でロゼットの足を踏んでやった。