17:バラの香り

 待望の連休がやって来た日、ポプリはかねてから計画していた通り、コレットと一緒に花屋に行くことにした。秋も深まってきたこの頃、天気もよく、ほどよく涼しくて、絶好のお出かけ日和だ。ちょっとだけおしゃれをし、ワンピース姿のコレットに目を細め、ポプリはコレットとゴンドラに乗った。ユルバンにもついてくるかと聞いたのだが、遠慮された。久々の二人のお出かけだから、二人きりにしてくれたのだろう。やたら気遣いのできる男だ。
 当然、二人ともはしゃいでいた。貴族の子女がこうやって「個人の時間」を満喫できるなんていうのは学生時の特権なのだ。二人は花屋に向かう前に、街の中心でウィンドウショッピングを楽しんだ。冬物の服が既に店頭に並んでいた。
「うわあ、見て見てポーちゃん。この服かわいい」
 セーターワンピースのような服を見つけてコレットが指さす。コレットに似合いそうな、いかにも女の子らしい服だった。
「ほんとう。コレットに似合いそう」
「そう? じゃあ、ちょっと試着して来てもいい?」
「いいわよ。私はここらへんでうろうろしてるから」
 笑顔で返し、ポプリも店内を見て回った。香水のコーナーを見つけて思わず立ち止まる。アステリア女神の花にあやかって、バラの香りは大層人気なので色んな種類があった。
(どれも私の香りとは違うのよね……)
 そう考えて苦笑する。ポプリが持つ香りは本当に独特で、王宮に来た香具師すら、この香りは調合できませんと言ったくらいなのだ。
(青バラの香り、ね……)
 父はそう言っていた。ポプリの香りは、女神の青バラの香りなのだと。女神の青バラの香りなんて嗅いだことがあるのかと聞いたら、父は首を横に振っていたのだが。
(「だが、そうと決まっているのだ」だっけ。よくもまあ断言できるわよね。思い込みの力って偉大だわ)
 思いながら香水を手にとって、少し香りを試して見た。本当なら既に別の香りをつけている時に試すものではないのだが、なんとなくつけてみたかったのだ。どちらかというと濃厚なその香水の香りはポプリの持つ甘い香りと交じり合って、妙に人工的な感じのする香りとなった。
 ちょっと気持ち悪い。後悔しながら香水を戻し、ポプリは急いでその場を離れた。試着室からちょうどコレットが出て来た所だった。
「あ、ポーちゃん、わたし、これ買うことに……どうしたの? 気分悪い?」
 ポプリは首を横に振った。
「ごめん、私が馬鹿だっただけよ。香りに酔ったの。もう自分の香りを定められてるのに、他のに手を出すもんじゃないわね」
 苦笑しながら言うと、コレットは心配そうにポプリを見つめたが、すぐに会計を済ませてくるからと言ってレジに走っていった。ポプリはその間外で待つことにした。からからと店のベルを鳴らして屋外に出ると、爽やかな空気が余計な香りを拭い去ってくれて、ようやく気分がよくなる。
「ポーちゃん、お待たせ」
 すぐにコレットが肩をたたいてきた。ちょっと走ったようで、少しだけ息が荒い。
「も、もう平気?」
「うん、平気。ありがとう」
「よかった。無理しちゃだめだよ」
「本当に大丈夫よ」
 ポプリはにっこり笑った。とても嬉しかった。
「ほら、行きましょう」
「うん」

 そして二人は花屋へ向かった。いつも行くお店なので、店の主人もポプリたちを覚えている。
「おや、久しぶりだね、ポプリにコレット」
 二人とも笑顔を返した。
「こんにちは」
「きょうは何を買いに来たんだい?」
「新しい苗が欲しいんです。オフィーリアってこの店にありますか?」
「ああ、オフィーリアね。今度はあれを育てるのか。僕も昔いれこんだことがあったよー。色が淡くてすごく綺麗なんだよね。ちょっと待ってな、店の奥の方に確かひと鉢……」
 主人はしゃべりながら店の奥に引っ込む。コレットは早速殺虫剤のほうに興味を引かれているようだった。害虫駆除のカタログも手にとって、真剣に読み始めている。
 ポプリは店内にたちこめるバラの香りを吸い込んだ。生花の香りは心地がいい。いろいろな種類のバラの香りがしたが、交じり合うとポプリの香りとよく似た香りだった。
「ポプリ、見つけてきたよ」
 店主がにこにこしながら帰ってきた。まだ葉だけの苗をつけた鉢を抱えている。
「この苗が一番元気だよ。買うならこれにしな。これ結構重いけど、宅配便使う?」
「ありがとうございます、お願いします」
「はいよ」
 元気よく、愛想よく言った店主は、鉢を持って店の奥へと持っていった。ポプリはコレットに近づいた。
「なんか情報は?」
「うん、うちのについてるのはハダニみたいだよ。この殺虫剤が効くって。早くしないと株がだめになっちゃう」
「じゃあ、二瓶ぐらい買いましょうか」
「うん。あと、この雑誌も買う」
「どうぞ」
「ポーちゃんは? オフィーリアの他に欲しいのないの?」
「今のところは」
 その時、コレットがはっとした。
「ポーちゃん……すごく、良い香りがする。香りが強くなってる」
 ポプリはえ、と目を見開いた。自分の香りは自分で気づきにくい。
「ほ、本当に? 最近はこんなことなかったのよ」
「でも絶対強くなってるもん。さっきだって香りに酔った、って……」
 まずい。今日は薬を持って来ていない。
「ポプリ、早く帰ろう」
 コレットが急いで言った。
「ゴンドラに乗って行けば10分で帰れるよ」
 コレットはそう言うと店の主人を呼んだ。急いで精算を済ませるつもりなのだ。ポプリは自分に大丈夫だ、と言い聞かせてみたが、香りの強まりは自分でも分かるほどになっていた。それと同時に気分が徐々に悪くなる。
 コレットがお金を払っている間にポプリは店の入り口付近で柱につかまって立っていた。店の主人か気付いて心配そうに言った。
「大丈夫かい。救急隊を呼ぼうか」
「いいえ」
 そんなおおごとじゃない。ポプリは必死に笑って言った。
「平気です。いつものことです」
 そう、いつものことだ。この香りをまとって生まれて来た者の宿命だ。
 コレットはポプリの手を引いて、急いで最寄りの水路に停泊していた船に飛び乗った。そのころにはポプリは既に寒気と息苦しさに襲われ、コレットが「ルソワ・ラ・ファキュルテ・デゼトワール」と唱えている間にゴンドラの床に横になっていた。……息が苦しい。久々の発作だ。
「ポーちゃん、頑張って。後少しだから」
 コレットが必死に言っていたが、ポプリは大丈夫だと取り繕うことすら困難になっていた。
「せ、先生を呼ぶ?」
 コレットがそう言ったので、ポプリは力の限りを振り絞って首を横に振った。
「絶対、ダメ……」
「でも」
「ダメ」
 先生とはポプリ専属の宮廷医のことだ。彼を呼んだら、また発作になったことが父にバレる。それは死んでもいやだ。

 手の施しようのないコレットはひたすらポプリを励まし続け、寮が近づくとユルバンの名を呼んだ。出て来たユルバンは驚いてゴンドラに駆け寄った。
「ポプリ!? 発作か? コレットはポプリの部屋に薬を取りに行って。僕はポプリを部屋まで運ぶから」
 コレットは弾かれたように駆け出した。あの子に走らせたらまずいじゃないの、と心の中でツッコミを入れた瞬間、コレットが石畳につまずいて「きゃっ」と言った。それみろ。
 ユルバンはポプリの膝裏に腕を通し、背中からお腹の上をくるむようにしてポプリを抱き上げた。もしかしなくてもお姫様抱っこ。いつもなら固まった後にギャーギャー喚きたてる場面なのだが、あいにく今はエネルギー不足だ。
 そのまま2階まで運ばれた。途中で通ったダイニングにいたロゼットは、目を丸くして二人を見ていた。ポプリは悔しかった。体が弱いのがバレてしまった。また一つ負けた気分だ。
 留守番をしていたパルファンも慌ててポプリの側に寄る。
『ポプリ!? どうしたの、発作?』
 ポプリは頷いた。バラの香りが濃くて息が詰まる。
『お医者様は……』
「呼んだら殺す」
 これだけは言わねばならないので、かすれた声で告げた。ユルバンがポプリの部屋のドアを開けながら言った。
「お医者様のこと?」
「…………」
「分かってるから、暴れないでね。とりあえず布団かぶって寝てて」
 言われるまでもない。

 布団をかぶってコレットが探し出してくれた薬を飲んで丸くなった。二人が側についていてくれた。
「久々だね」
 ユルバンがポツリと呟く。とても不安そうだ。口に出すのがこわいだけで、ポプリも同じことを思っていた。時が近付いているんじゃないだろうか、と。
「オフィーリア」
 コレットが言った。ハムレットの恋人。花冠を木の枝にかけようとして、枝が折れて川に落ち、溺れ死んだ乙女。
 ポプリは首を横に振った。古代の作家の書いた物語とは関係ない。関係あるのはむしろ、それよりも太古の神話なのだから。
 ユルバンが側にしゃがんで、ポプリに囁いた。
「よくなるまで側についてるよ。久々だから、僕らも少し不安なんだ。強がらないでね」
 ポプリは頷くしかなかった。心配してくれるのは、ありがたいことだ。
「アステリア様のご加護がありますよう」
 コレットが呟く。声が小さいのは、ポプリにこの言葉を言うのがふさわしいのかどうか不安だからだろう。ポプリはそれでも、コレットの心遣いに微かな笑みを返した。
 アステリアの加護なら受けている。見返りに差し出さねばならないものはあるのだろうが。
 ――アステリア女神。あなたは慈悲の女神なの、それとも乙女の生け贄を求める残酷な女神なの。

 心の中で問いかけてみた。
 ふと顔を上げれば、戸口にロゼットがたってこちらを見つめていた。いつもの馬鹿にしたような表情も余裕そうな笑みもなく、真剣な、真っすぐな目で。
 出て行けと怒る力もなかったポプリは、ただ、やっぱり彼の目の色は綺麗だ、とだけぼんやりと思い、薬の運んできた眠気に身を委ねた。