18:星の女神

 気分が良くなってポプリが目を覚ましたのは随分遅くなってからだった。ユルバンが本を膝に乗せたまま、ベッド脇のいすに座って寝ていた。ポプリは起き上がった。すぐ脇で寝ていたパルファンが気付いて目を開ける。
『ポプリ……気分はどう』
 眠そうだ。
「悪くないわ。……もう宿題間に合わないわね」
『え、学校行く気? 明日は休んだら? 発作のすぐ後だよ』
「いやよ。父様がきっとすぐ欠席に気付いて私を連れ戻そうとするんだから」
 ポプリは布団を抜け出し、とりあえず髪を梳いた。さらさらと流れた真珠色の髪が、月光を弾いて青にきらめく。もう、バラの香りは強くなかったが、部屋には依然として残り香があった。思わず顔をしかめる。
 気を取り直し、ポプリはユルバンの隣りに膝をついた。守護獣も彼の足元で丸くなっている。ポプリはまずユルバンの肩を優しく揺すった。
「ユルバン」
「ん……」
 ユルバンはすぐに、うっすらと目を開けた。
「ポプリ……もう気分はいいの?」
「ええ。もう平気。やっぱり自分で感じたほど重い発作じゃなかったみたい」
「よかった。おい、アルジャン、起きろ。ポプリの目が覚めたみたいだよ」
 心底ほっとしたユルバンは溜め息をつき、足元の守護獣の頭をポンポンと叩いた。そしていすに座ったままポプリを見上げた。
「ポプリ、本当に、先生に知らせなくていいのか? 意地を張って命を削ったら元も子もないよ」
「私は自分の命を削ったりしない」
 強く言ったポプリをみつめ、ユルバンは黙っていたが、やがて瞳を伏せた。
「その強さが逆に、不安だよ。今だけなんじゃないかと」
 言いたいことを悟ってポプリは返事に詰まった。そして、ユルバンの手を取る。
「大丈夫」
 心配してくれる友人がいることに、心が一杯になるほどの感謝を覚える。自信に満ちた笑みを浮かべることができた。
「私には勝算があるの。大丈夫よ。お父様も持たない力を、私は手に入れるんだから」
 ユルバンは眉をひそめた。
「また、一人で何かやっているのかい?」
「心配しないで。別に私の手に余ることは何もしてないわ。それにこれ、一対一の勝負だもの。勝算はあるの。だから大丈夫」
 ユルバンはそれでも不安そうだったが、頷いた。
「その言葉、信じるからね」


 ポプリがせめて夕飯を食べなかった分夜食でもとろうと1階に降りると、明かりがついていた。もう真夜中なのに誰だろうと覗いてみた自分を、ポプリは呪った。
「あんた、何してるの」
 鷲を肩に乗せたロゼットはポプリを真っすぐに見て短く答えた。
「君のことを考えてた」
「……は」
 ひどく誤解を招く発言だっただけに、ポプリは一瞬硬直した。硬直を解除できたのは、他意はないはずだと自分に言い聞かせたおかげ。幸い、ロゼットの次の問いはそれを証明してくれた。
「羅針盤が欲しいのはそのため?」
「だとしたらくれるとでもいうの?」
 聞き返せば、ロゼットは視線を落とす。
「いや」
「じゃあ聞かないで」
「……具合は」
「あんたが心配するの?」
「悪いか? あんな苦しんでる人間を目の前にして、都合がいいと喜べるほど悪い人間じゃないぜ、俺は」
 ポプリは黙った。まだロゼットと言い合う気力は回復していなかったから、鼻で笑うのはよしておいた。
 ロゼットはパーカーについているひもを指でいじくり回しながら、ポツリと言った。
「体、弱かったんだな」
「別に。小さいころはよく発作を起こしてたけど、今じゃほとんど起きないし」
「すごい香りだった」
「……このバラの香りのこと? 私の具合が悪くなると強くなるのよ」
 ポプリは笑った。我ながら歪んだ笑みになっているだろうと思った。それでも笑う。笑って見せる。
「呪いなのよ。私の精力を吸い取って香りにして放つの。アステリアからの天賦? 笑わせるわ」
「……俺は好きだけど。その香り」
「そう。嬉しいわ。どうもありがとう」
 内容とは裏腹に声荒く言ったポプリに、ロゼットはただ沈黙していた。そして、ぽつりと。
「君だって好きなんだろう。バラを育ててるくらいなんだから」
 ポプリは言葉につまり、ロゼットから視線を外した。
「……香りは別に好きじゃない」
「そう」
「だってこれ、普通のバラの香りじゃないもの」
「……じゃあ、なんの?」
「あんたが知ったってどうしようもないわ」
 言って、なんでこんなことを話しているんだろうとポプリは思い、夜食を諦めて部屋に戻ろうと思った。そこへ、思いがけないロゼットの言葉が背中に刺さった。
「青バラか?」
 思わず足が止まった。
「……どうしてそう思うの?」
「デロスに咲く青バラと同じ匂いだ」
「あんた、デロスに行ったことあるの?」
「あるよ。小さいころだけど。アステリアの青バラ。……すっごく綺麗だった」
 そう言ってロゼットは立ち上がった。ポプリはびくりとしてロゼットを見上げた。全部悟られたような気がしていた。そんなのは嫌だ。誰に同情されてもロゼットにだけは同情されたくなかった。しかし、彼は戸棚に向かうと小さな箱を取り出し、ポットにお湯を注いだ。彼の鷲が少し興奮したように翼をわさわささせた。ロゼットはポットを示して言った。
「ローズヒップ。飲むか?」
「……なんで」
「ビスケットも。毒は入ってないぜ。眠り薬もな」
 以前彼に一服盛ったことがあるポプリは酷く気まずくなった。
「あのね」
「いいから座れ。俺はもう部屋に戻るから」
 妙に慣れた手つきでお茶の用意を終えると、ロゼットはポプリの前にカップと砂糖を用意し、言葉どおり、そのままリビングを出て行った。
 ポプリは戸惑いながらも角砂糖を二つカップに放り込んだ。
「わけわかんないやつ」
 同情しているのなら、腹が立つ。でも彼の動作も話し方もあまりに素っ気なくて自然だった。
「わけわかんない……」
 彼のいれたローズヒップティーは絶品だった。ポプリはビスケットをかじり、ぼんやりと天井の明かりを見つめていた。


 翌朝、ゴンドラに乗り込もうとしたポプリをコレットとユルバンは二人掛かりで止めにかかった。
「エルヴェ先生の授業があるのよ! しっかりノートとらなきゃ! 先生が講義から試験問題出すの、知ってるでしょ!」
 暴れるポプリを押さえ付けて、ユルバンが言った。
「ノートなら僕が代わりに取るから! 今日は休んで! じゃなきゃこっちが心配でおちおちしてられない!」
「そうだよポーちゃん! しっかり休んで。まだ本調子じゃないんでしょ」
「行きたければ行けば良い」
 一人、冷静に口を挟んだのはロゼットだった。
「放っておいても、あとでこっそり抜け出して行きそうな勢いだ。だったら始めから連れていた方が良いんじゃないのか?」
 ロゼットに味方をされたのが意外で、ポプリは一瞬ポカンとしたが、裏を読もうと色々考えをめぐらせているとふと気付いた。これはもしやチャンスではないのか。ロゼットのいない間にゆっくり部屋を物色できるというものだ。
(でも、そんな簡単にボロを出すやつでもないわよね……)
 ロゼットの真意をはかりかねてポプリは眉をひそめた。ロゼットはポプリの視線を受け止め、ニヤリと笑っただけだ。余計に怪しい。
 しかしユルバンは表面上のやり取りしか分からず、ロゼットを睨んで反論した。
「君だって昨日のポプリの様子を見ただろう。ポプリ、あいつの言うことなんか聞いちゃだめだ、休んで。ね、頼むから」
 ポプリは迷った。罠か、否か。
「分かったわ」
 ポプリは暴れるのをやめて言った。
「そのかわり完璧なノートを取ってこないと許さないわよ?」
 コレットもユルバンもほっとした顔をした。
「じゃあ、ゆっくり休んでね」
「無茶するんじゃないよ」
「分かってるわよ」
 ポプリが言うと、三人ともゴンドラに乗り込んで出発した。

 水路の向こうに消えるまで舟を見送り、ポプリは寮の桟橋に立ったままパルファンに言った。
「ねえ、どう思う?」
『さあ。ぼくはあまり冒険しない方が良いと思うけど』
「じゃあしてみようかしら」
『……もうお好きにどうぞ』
 溜め息交じりに言ったパルファンの言葉を聞くや否や、ポプリはきびすを返して寮に戻った。
 まっすぐ二階に向かい、踊り場で右に曲がって男子たちの住む方へ。そして迷わずロゼットの部屋の前に立った。前回と同じように、ドアに指で魔方陣を描く。
「ルソワ・ラ・ファキュルテ・デゼトワール」
 唱え、術式表示の呪文を続ける。今日もしっかり鍵かけの魔法はかかっているようだ。
『ほらー。あのロゼットが何の対策もしてないわけないよ』
「パルファン、お黙り」
 一蹴して術式を詳しく見てみた。
「破れそうよ。ちょっと手間がかかりそうだけど」
 ポプリは呟き、ロゼットの施した魔方陣の上からさらにいくつか魔方陣を重ねた。
『なにそれ。強行突破?』
「そう」
 魔術幾何学上、破り安い場所に破壊の魔方陣を仕込む。そして魔方陣の中央に指をおいた。
「カサ・ラ・エクスプレスィオン、術式破壊!」
 上手くいった。鍵かけの魔方陣が欠け、徐々に薄れていくのをみて、ポプリは堂々とドアノブを回した。
 中は前回侵入したとこと変わっていなかった。ベッドの上に人がいなくて、止まり木に守護獣がいないのが唯一の違いだ。ポプリはまず、前回探し損ねた枕の下を確認してみた。何もない。
 その時、パルファンが言った。
『ポプリ、青バラだよ』
 え、とポプリが振り返ると、仔ライオンは勉強机の上に乗っていた。パルファンがあごをしゃくった方を見て見ると、読みかけの古い本の上に、しおりがあった。青バラの押し花のしおりだ。ポプリはそれを手に取ろうと手を伸ばしたがやめた。触れたくなかった。
「……デロスに行った時に取ってきたんじゃないの」
『花を見るのは自由だけど、バラ園に入れるのは王族だけじゃなかった?』
「彼なら潜り込めそうよ」
『う……確かに』
 そしてポプリは、開かれたページに気付いた。
 ゼウスの王笏にポセイドンの三つ又の矛、ヘルメスの杖ケーリュケイオン、アテナの防具アイギス、デメテルの小麦と鎌、ディオニュソスのテュルソス、エロスの恋の矢、アフロディテの恋の帯、アポロンの竪琴にアルテミスの弓矢。
 そして、
 アステリアの「星の設計図」――別名、星の羅針盤。