21:彼女の目的

 時折、ポプリは昔の夢をみる。白を基調にしつらえられた大きな部屋。天蓋つきの巨大なベッドに、ポプリはいつもたった一人で寝ていた。寂しさを紛らわせるために枕を埋めてしまうほどいっぱいに並べられたぬいぐるみ。ポプリの一番のお気に入りはライオンだった。ポプリの誕生星の星座である。
 窓は二つあった。天井の高い位置にある天窓と、南向きの大きな窓。オリヴィエ先生が教えてくれる星の話はどれも面白くて、自分で実際に星空を眺めて、教えられたことが本当だと確かめて喜んだ。
 太陽と同じように上っては沈む星々。その星々を結んで描かれる天空の地図。星にもいろいろな色があると気づいた。天空一明るいシリウスは青白く、夏の地平線近くに輝くアンタレスは鮮やかな緋色。
 そして、その星の光を受けながら魔術を習った。ルソワ・ラ・ファキュルテ・デゼトワール、星々の力を受け取れ。古いの言葉で唱えて魔方陣を描く。上手くできるとオリヴィエ先生は、自分のことのように喜んでくれた。

 そして思い出すのは、毎日様子を見にやってくる父のこと。おまえは特別だ、アステリア女神の使いだ、青薔薇の守り手だ。ポプリにはそんな褒め言葉など嬉しくなかった。父がポプリを溺愛する理由。それは、ポプリが彼の娘だからじゃない。
 ポプリは確かに国の宝だ。ヘスペリデスの園の金のリンゴ。ドラゴンに守られた金のリンゴ。ドラゴンは父だ。そのドラゴンの面倒を見、共にリンゴを守るヘスペリデスたちは、母と父の臣下たち。
 けれどポプリは物言わぬリンゴではない。それなのに、一緒に遊ぶのが許された子供はユルバンだけ、それも週に1度だった。いつだって食べるものもする勉強も、出席する行事も誰かが決めていた。
 ――だから、ポプリは逃げたのだ。

 ある日、学院から帰るとメールが届いていた。差出人名がオリヴィエ・ラルカンジュだと気付いてポプリは慌てた。――オリヴィエ先生。
 ポプリは急いで部屋の鍵を閉め、邪魔が入らないようにしてメールを開けた。

 ポプリ姫へ
 お久しぶりです。学院での生活はいかがでしょうか。もう最高学年に上がったと聞きましたから、飛び級したんですね。姫のことだから、精一杯努力して頑張っているのでしょう。
 僕は最近、新しい家に移りました。サンクチュエール国内ですが、学院とは正反対の方向です。海が懐かしいので、また学院の近くに行きたいものです。
 本題ですが、トラントゥールの専属天文学士が、神殿に動きがあるなら今年だろうと言っていました。なので、こうして警告を、と。
 ユルバンくんもいるのですから、一人で無理をしないでください。あなたの幸せな未来を祈っています。
 オリヴィエ・ラルカンジュ

 ポプリは読み終えて、ほうっと息をついた。数年ぶりの連絡だった。しかし、途中で父か中央の誰かに傍受されていたりしないだろうか。心配だ。受取人の指定を調べてみたら細工をした形跡があった。なるほど、と思ってポプリは笑った。オリヴィエ先生だ、これくらいできるはずだった。
 オリヴィエ先生。ポプリはそっと文面を指でなぞった。元気にしているみたいでよかった。彼がポプリの家庭教師を辞めてしまったのはポプリが原因なのだから、ずっと気にかかっていたのだ。

 そして、ポプリはもう一度文面を読み返す。
「神殿に動きがあるなら今年か来年だろう……ね」
 すこし緊張でドキドキするのを感じた。思ったより早い。やっぱり早いうちに、なんとしてでもロゼットの羅針盤を手に入れなければ。……そう、ロゼットもあれが必要だというなら貸してもらうだけでもいい。自分のものにしてずっと所持できればそれに越したことはないが、間に合わなかったら本末転倒だ。どうしよう、とポプリは考える。あいつにものを頼むのはしゃくだ。何か交換条件……。
 ポプリはしばらく迷った後、別のメールを開いた。2週間ほど前に送られてきた後、ずっと放置していたメール。
「……背に腹はかえられないものね」
 自分に言い聞かせるように呟いた。



 ロゼットが帰って来たのは、幸いポプリのすぐ後だった。ユルバンもコレットもまだだから、これで心置きなく二人きりで話ができる。
 ねえ、とポプリが声をかけるとロゼットは階段の踊り場のてすりから身を乗り出しているポプリを見上げた。
「何か?」
「取引のことだけど」
 ロゼットがすっと目を細めた。
「なんだ」
「単刀直入に言うわ。今すぐ羅針盤が欲しいの。必ず返すから、しばらく貸してくれない?」
 ロゼットは目を瞬いた。予想外のお願いだったらしい。しかし彼は口を開くと、きっぱりと言った。
「それはだめだ。返してくれる保証なんてないからな。それに、こっちには何のメリットもない」
 言いながら、ロゼットは階段を上がって来る。ポプリの隣りを擦り抜けて自分の部屋に行こうとした彼の袖を、ポプリはすかさず捕まえた。
「待ちなさい。話は終わってないわ」
「なんだよ」
「メリットが欲しいなら上げるわ。アステリア祭、王宮で行われるパーティーにあなたを呼んで、お父様に会わせてあげる」
 ロゼットは振り向き。目を見開いた。
「国王に……?」
「そうよ。貴族だっていっぱい集ってるはずよ。あなた、貴族とのつながりが欲しくてこの学院に入ったんでしょう? 手っ取り早くつながりをあげると言っているの」
 ロゼットはポプリを見つめ、呟いた。
「あんた……本当に、羅針盤のこと何も知らないんだな」
「庶民が知ったような口を利かないで」
 呆れと嘲りの交じったその声に腹が立ったので高飛車に言ってやったら、逆にロゼットに睨み返された。一瞬こちらがすくむほどの、鋭い瞳。
「じゃあ言ってみろ。羅針盤の何を知っている。羅針盤を守るためにどれだけの人が命を懸けたか、どれだけの血が流れたか、どれだけの思いがちいさな珠に込められているのか。どれだけの貴族がどれだけの庶民の血を流して、自分たちは何も知らずにのうのうと贅沢をしていたのか」
 いつになく感情的なロゼットにポプリは一瞬怯んだが、そんな風に言われる謂れはない、と怒りがわいてきた。
「じゃあ、のうのうと暮らしている貴族がその代償に差し出すものを知ってる? 宗教に国家に神に身分に役割に、何を要求されてしまうか分かる? 望んでもいないのに! どうして私なの! なぜよ! 悲鳴を上げて暴れだしたい気持ち、分かる!?」
 ロゼットも面食らったようだった。青の瞳を狼狽えたように揺らして、開いた口を閉じ損ねたように半開きのまま動かさない。そして、ポプリに視線を戻したロゼットは軽く目を見開いた。
「あんた……」
 その呟きを聞いて始めて、ポプリは自分が泣いていることに気付いた。これにはポプリ自身が激しく動揺した。女が涙を流すのは卑怯だ。その上、よりによって目の前にいるのはロゼットだ。こんなの、いやだ。
 逃げたかったが、ポプリは踏みとどまった。目的はまだ達成していない。制服の袖でごしごしと乱暴に涙を拭くと、泣くまいと必死にこらえながらずいっと手をロゼットに突き出した。
「貸しなさい。返さないと言ってるわけじゃないんだから」

 ロゼットはしばらく、黙ったままポプリを見つめていた。それから、口を開く。それはポプリの要求に対する答えではなかった。
「あんた……あんたは、どうして星の羅針盤を欲しがるんだ?」
「……あなたには関係無いわよ」
「そういうわけにはいかない。所有者として、貸すなら使用目的を明かしてもらう権利はある」
「正当な所有者でもないくせに」
「だとしても、所有者だ」
 ポプリは黙った。危ない思考の持ち主に聞こえることは分かっていた。だが、この期に及んでロゼットの自分に対する評価を気にする理由はない。
「父を……父を脅すのよ」
「は?」
 案の定ロゼットは目をひとつ瞬いて固まった。ポプリは投げやりな気分になって吐き捨てた。
「父に言うことを聞かせるのよ。もう思い通りにはならないって、私の力を見せてやりたいの。力が得られるなら虎の威でも何でも借りるわ。それだけよ」
「あんた……父親とどういう親子関係なんだ」
「プライバシーまで明かさないといけないわけ?」
 ロゼットは言葉を返さず、ポプリを見つめる。そして、囁くように聞いた。
「その体質と関係あるのか? その青バラの匂いと……アステリア女神と」
 ポプリはとっさに返事ができなかった。なんて鋭いんだろう。伊達にポプリの主席の座を脅かしてはいない。
「そうなら、なんなのよ。あなたがこのしがらみ、全部断ち切ってくれるの?」
 ロゼットは溜め息をついた。まるで哀れむように。いちいち彼の言動がむかつくというのはどういうわけだろうと思いながら、ポプリはロゼットの言葉を待った。
「羅針盤は問題を起こしても、問題の解決にはならないぜ」
 意外な言葉にポプリは虚を突かれた。
「羅針盤があんたを助けるとは思えない。余計な手出しをするな。火傷するぞ」
 そう言って結局階段をロゼットは上がっていく。
 こんなに自分のことをしゃべったのに、とポプリは嵌められた気分になった。
「……私が羅針盤目的であんたの取引に応じたこと、知ってるくせに! 知っててそれを利用したくせに! いまさら警告? 冗談じゃないわよ」
 ロゼットは階段を上がり切ったところでポプリを振り返った。弁解はない。認めた証拠だ。しかし、ポプリに向けられた視線には一瞬、申し訳無さそうな色が混じっている気がした。
 ……気のせいだったのだろうか。そのままロゼットは消え、すぐに部屋のドアが閉まる音がした。

 ポプリは階段の上で座り込んだ。……もう少し下手に出た方がよかったんだろうか。上からの態度で物を言うことに慣れてしまうとどうしても抵抗を感じてしまうのだ。だめね、嫌いなはずの王女がしっかり染み付いてるわ、とポプリは自嘲気味に笑みを漏らした。
 目の前にかかった真珠色にきらめく髪を掻き上げて、ロゼットの部屋の方を睨みつけた。
(いいわ。正面から頼んだのに聞いてくれないなら、力づくで奪うまでよ)
 時間がないのだ。ロゼットのくだらない復讐なんてちっぽけなことだ。こちらは生きるか死ぬかの戦いと言っても過言ではないのだから。
(時間が、ない……)
 タイムリミットすらはっきりとはわからない。早ければ早いほどいいだろう。なんとしてでも間に合わせなければならない。
 ……女神が消える前に。