22:銅の時代


 その日の古典神話学の授業で、エルヴェ教授は「時代」のことを持ち出した。タイムリーすぎる話題に、ポプリは思わず板書を写す手を止めて顔を上げ、教授をじっと見つめてしまった。
「金の時代、銀の時代、銅の時代というのを聞いたことはあるかい?」
 ……話しの内容如何では異端に触れる。それに気付いてポプリは少し緊張した。気温の寒さとあいまって、背筋が震える。
 教授の質問に対してすらりと手を上げたのは、アロワとロゼットだった。エルヴェ教授はロゼットを指名した。
「神々の地上との関係の密接さによって区別された三時代のことです」
 よどみない彼の答えにエルヴェ教授は満足そうに頷く。
「そう。神々による創世の直後、神々自らが地上を歩き回り、地上と密接に関わっていたのが金の時代。そしてざっくばらんに分けてしまえば大神ゼウスによる統治が全盛だったのが銀の時代。神と人間の関係が最も安定していた時代だ。今の時代は銅の時代と呼ばれる。神はもう人とほとんど関わらない。天のみで暮らしているということだ」
「けれど……神々は私達を見守っているのですよね?」
 信心深い生徒なのだろう、少女が一人そう反論した。信心深いならエルヴェ教授の授業は取るべきではないのに、とポプリは冷めた思いを浮かべた。エルヴェ教授は少し苦笑して講義を続ける。
「ええ、そのようだね。しかし我々にはもう干渉してこないようだ。今の時代に、我々に神々が与えたもうたもの、それが星だ。我々は偉大なる神々の作った宇宙、そして星々の力を借りて魔術を使っている。だから我々の呪文には必ずルソワ・ラ・ファキュルテ・デゼトワール、つまり古代語で星々の力を受け取れという意味の言葉が使われる」
「先生」
 ポプリは手を上げてみた。この教授に直撃質問してみたくなった。
「この呪文、古代語とおっしゃっていますが、古代ギリシャ語ではありませんよね? なぜですか?」
 ざわっと教室中が囁きに満ちた。そして、生徒たちの視線がエルヴェ教授に集まる。彼は大して動揺した様子も見せずに答えた。
「確かに言語は魔術に重要なものだけれど、その言語が意味を持っているということに意義があるんだよ。従って、厳密に言えば現代語でも魔術を行うことは可能だ。ただ、昔の言葉の方が神々の使っていた言葉に近いからね、そちらのほうが有用とされているだけだ」
「なら、やはり古代語の中でもギリシャ語が一番良いのではないでしょうか」
「そうかもしれない。まだ研究は進んでいないが、ギリシャ神教の中心地はギリシャではなかったということだと思う」
 期待していた答えと違ったのでポプリは少し肩を落とした。
「例えば、昔の世界宗教のように?」
「そう。発祥地と中心地はえてして違う場所になるものだ。……もっとも、他の理由もあるのは確かだが」
 ポプリは顔を上げた。エルヴェ教授はそれ以上話す気はないようで、その「他の理由」はうやむやにするつもりのようだ。ポプリはもう一度手を上げた。話題がそれる前に、どうしても聞いておきたいことがある。
「なんだい、ポプリ」
 指されたポプリは、異端に聞こえないように努力した。
「アステリア女神だけは、まだ天に帰っていないと……銅の時代が終わる時に帰るのだと聞いたのですが、本当でしょうか」
 エルヴェ教授はいつも浮かべている薄笑いを引っ込めて、ポプリを見つめた。ポプリは続ける。
「そして、その時には“青薔薇”を天へと持ち帰る、というのは」
 本当でしょうか、と続けようとした言葉は、エルヴェ教授に遮られた。
「すまない、ポプリ。雑談のし過ぎで授業内容が押しているようだ。授業の後で質問しに来てくれるかい」
 実質上の呼び出しだ、と気付いてポプリは口をつぐんで頷いた。……ちょっと、しゃべりすぎたかもしれない。見ればロゼットが振り返り、ポプリの方を見つめていた。ポプリはなんとなくそのサファイアのきらめきを受け止め切れず、視線をそらした。

 放課後にエルヴェ教授のところを訪れると、彼は開口一声こう言った。
「君は王族かい?」
 とっさのことに返事ができなくて、ポプリは目を瞬く。エルヴェ教授は苦笑した。
「王族にしてはポーカーフェイスがあまり上手ではないようだね」
「あの……」
「今日話した、アステリア女神が銅の時代の終わりに天に帰る話、あれはね、王族しか知らないんだ」
 ポプリは少々呆れた気持ちで聞いた。
「それをどうして先生が知っているんですか」
「研究者になると、知ってはいけない情報も入って来るんだよ。それに、むしろ頼まれて機密を研究することもあるしね」
 にやりと笑ったエルヴェ教授は、座って、とポプリに席を勧めた。ポプリが座るとエルヴェも席に着く。ポプリが王族だと知ったところで態度を改めるつもりはないようだ。ポプリはその方が良かったので気にしなかったが。
「君が王家でどんな立ち位置にいるのかは聞かないことにしよう。けれどね、一言忠告しなければならない」
 忠告、とポプリは眉をひそめた。何だろう。
「どういうつもりでアステリア女神のことを知りたがっているのかは知らないが、あまり神を利用しないことだ。彼らは本当にいる。それだけは確かなんだよ。そして、今の我々よりかなり大きな力と豊富な知識を持っている、これも確かだ」
 教授がここまで断言したことにポプリは少し驚いた。神を信じる信じない云々ではなく、存在そのものは絶対だというのか。そして、利用するなという言葉にぎくりとした。星の羅針盤を利用するというのは、つまり神を利用するということになってしまうのだろうか。
「でも」
 ポプリは拳を握り締めて、絞り出すように言った。
「何もしてはいけないのなら、生け贄にされそうな私は、どうすればいいんですか……?」
「え?」
 エルヴェ教授が目を見開いて見つめてきたので、ポプリは我慢できなくなった。立ち上がった拍子に椅子がガタンと音をたてる。薔薇の香りがふわりと香った。――青薔薇。アステリア。
「先生。知っていることを教えてください。私、闘わなければいけないんです。……アステリアを……女神を地上に引き留めようと思うなら、先生はどうしますか?」
「女神を……?」
 これはさすがに突飛な言葉だっただろうか。エルヴェ教授は眉をひそめてポプリを見つめていた。
「その方法を聞いてどうするんだい?」
「言えません……先生がどちら側の人間なのか、分かりませんから」
「どちら側がどういう意味なのかは知らないが、分からないならなぜわたしに聞くのだ?」
「……先生は、女神の罰も恐れない気がしたから」
 それを聞いてエルヴェは苦笑した。
「生徒の間では、わたしは完璧に異端者として認識されているのか」
「そういうことじゃないんです」
 エルヴェ教授は肩をすくめ、こちらへ歩いて来ると、ポプリを静かな瞳で見下ろした。
「君がいつも勉強熱心で研究熱心なのは、このことに関係しているのかい?」
「……少しは、関係しているかも知れません」
「そうか」
 エルヴェ教授は言うと、ポプリの肩をポンと叩いた。触れられたことにポプリはピクリとなったが、辛うじて自制する。ここで男性過敏を発症している場合ではない。

「女神を引き留める方法だがね、ないことはない」
 エルヴェ教授はそう言った。
「実はわたしも今その研究をしている。だが、あまり若い子が無鉄砲に首を突っ込んで良いことでもないんだよ」
「……っ」
 私、当事者なんです!
 そう叫びたかったが、言葉が詰まって出てこなかった。言ったらそれこそ、完璧に身元を明かしてしまう。
 エルヴェ教授はそのままポンポンとポプリの肩を叩くと、子供に言い聞かせるような笑顔を浮かべた。
「聞き分けなさい。それと、他の先生にはむやみにそういう質問をしないように。ここの先生は野心家が多いからな。君が王族であること、女神と何か関係があると知ったら、間違いなく目をつけられる」
 ポプリはうなだれ、小さくはいと返事をした。


 教授のオフィスを出ると、曲がり角でいつかのように突然声をかけられた。
「ポプリ」
「うわぁっ!!」
 盛大に飛び上がってしまったが、相手はユルバンだった。その隣りではロゼットが腕を組み、ふてくされた表情で壁に寄りかかっている。ユルバンはロゼットを指さして言った。
「立ち聞きしてたのを捕まえたんだ」
 ポプリは声も出なくなった。しまった、あんな大事な話をするというのに、こいつの対策もせずにべらべらと、あんなことやこんなことまで話してしまっていた。
 もう作法とか礼儀とかに構っていられなくて、ポプリは両腕を延ばすとロゼットの胸ぐらをつかんでガクガクと揺さぶった。
「あんたっ……どこまできいたのよ!」
「大したことは聞けてないぜ。生け贄にされそうな私は、あたりまでだったかな」
 平然と言うが結構大したことだ。ポプリの事情はその言葉通りなのだから。ポプリは手を放すと、頭を抱えて盛大にため息をついた。まあ、ロゼットが意味を分かっていないなら何よりだ。仕方ない。今回は自分の不注意なのだから。

「その生け贄と、銅の時代とかアステリア女神と関係ある訳か」
 しかしロゼットのその一言で楽観視できなくなった。……こいつ。
 ポプリはロゼットを睨むと、ユルバンに言い付けた。
「ユルバン、こいつを私の目の前に出てこないようにどっかに拘束して。我慢できないわ」
「え、あの、ポプリ?」
「立ち聞きを見つけてくれてありがとう。もし何か聞かれても答えちゃだめよ。アステリアも銅の時代も生け贄もだめ。知ってるか知らないかも答えちゃだめ。いい?」
 はあ、とユルバンが呟く隣りでロゼットが呆れたようにポプリを見つめていた。
「あんたなぁ。他人を巻き込むのは趣味じゃないと思ってたけど?」
「ユルバンはいいのよ」
 はは、とユルバンが諦めたような笑みを浮かべた。ロゼットはユルバンをちらりと見てさらに言う。
「それとも、こいつを巻き込んでまで、言いたくない秘密なのか。ってことは、それだけ大事な秘密ってことだな」
「そう思ったなら思うだけにして、口には出さないでいたら? わざわざ考えてることを教えてくれるなんて、それこそあんたらしくないと思うけど」
 すると、ロゼットは肩をすくめて言った。
「せめてものフェアプレー精神さ。俺ばかりあんたの秘密を知るのも悪いからな」
「厭味なやつ」
「……なんでそうなるかな」
 ロゼットがやれやれというように、大袈裟に両手を広げて見せた。なんてわざとらしい。

「それにしても、あんたやたら必死だけど、そこまで急ぐものなのか?」
「だから、もう時間がないって言ったじゃないの。それでもあんたは羅針盤を貸してくれなかったんでしょ」
 羅針盤があれば何とかなると思ったのに。アステリアの標徴物なのだから。
「銅の時代に女神は天に帰るとか言ってたな。それとおまえが急ぐ理由は関係あるのか」
「しつこいわね。どうしてあんたに教えなきゃいけないのよ」
 冷たくあしらったはずなのに、見てみたらロゼットの瞳はごく真面目で、単なる好奇心には思えなかった。ポプリは虚を突かれた。本気でその情報を求めているようだ。……彼も、ポプリの事情と関わりがあるのだろうかと、ふと思う。
 女神の秘宝をもつ少年。目的は復讐だと言っていた少年。飄々としているくせに、ふとした拍子に激しかったり、悲しかったりする瞳を見せて、へらへらしているくせにふとした拍子に真面目になる少年。
 ポプリは目をそらし、小さな声で言った。

「銅の時代はもう、終わるの。私はそれを知っているのよ」

 今ロゼットがどんな瞳をしているのか見てみたかったが、今見たら何かがいけないような気がした。胸を張り、凛とした表情でポプリは歩きだす。
「ユルバン、そいつを私に近付けないでね」
 ポプリはそれだけ言い残した。