24:校内神殿と紋


 ずるい。最初にそう思った。そんなことを言うなんてずるい。何がどうずるいのか、自分でも上手く説明できなかったが、とにかくずるい。……悔しい。
 ロゼットはそれ以上何も言わず、ポプリはキッと顔を上げ、きつい表情をした。けれど多分、視線にはあまり強い力をこめることはできなかっただろう。どうしてこう、いつもいつもこいつには負けるのだろう。
「……帰って」

 司祭が先ほどのポプリの怒鳴り声を聞いて、手紙を片手に「どうしたのです?」と出て来た時には、ロゼットは既にポプリに背中を向けて練習に戻る道に足を進めていた。いやに素直に従ってくれたものだ。それに、手紙の中身を詮索する気はなくなったらしい。
 ポプリは妙な気分でロゼットの背中を見つめていたが、やっとのことで首を横に向け、ロッシュ司祭に「大したことは無いです」と言った。
「寮が一緒とは言え、私達、折り合いが悪くて……」
「ああ、あなたが彼の顔を見た時の反応は確かにそんな感じでしたね」
 ロッシュ司祭も納得したように頷く。そんなにあからさまに態度に出ていただろうか、とポプリは少しあわてて頬を押さえた。ロゼットを前にすると感情の起伏が激しくていけない。
「そ、それより司祭さま、手紙は……」
「ああ、これですよ。わたしを通してあなたに手紙を送ったのですから、内容は多分、アステリア祭の後の星女神讃の休みのことでしょう」
 アステリア祭の後には、女神を讃える長期の休みがあるのだ。一年を通しても一、二を争う大きな祝日。手紙は確かにその休暇に関することだった。貴族王侯のやることらしく大仰な季節の辞令から始まって、長ったらしく回りくどい手紙だったが、簡単に略してしまえば「休みは実家に帰って来い」という手紙だった。
 ポプリは溜め息をつく。葡萄の月に学校に戻ってからまだ二月しか経っていないのに、まったく心配性過ぎる。……心配は心配でも、決して“親”としての心配ではあり得ないのだけれど。
 ポプリは手紙を元の封筒にしまった。返事は決まっている。「いやだ」。帰ってたまるか。父といるならロゼットの方がまだマシだ。
「お父様に何かあったのですか?」
 え、とポプリは聞き返した。司祭は何かを勘違いしているらしい。
「うかない顔をしていますよ」
「いえ、別に」
 ポプリは苦笑いした。ポプリの親子関係が複雑なのは司祭も知っているはずだが、彼はそれでもポプリが両親に対して人並みの情は持っているだろうと思っているようだ。確かに今の自分があるのは良くも悪くも両親のおかげだが、“悪く”の部分が多過ぎるので残念ながらポプリは司祭の予想を裏切っている。
「……ロッシュ司祭」
 ポプリはぽつりと言った。
「もし私がアステリアとの関係を断ち切れたら、私、お父様やお母様とも普通の親子になれるのかしら」
「それは……」
 事情をある程度知っている司祭は言葉を濁らせた。それはそうだといったらポプリが落ち込むと思っているのだろうか。
「わたしには分かりません」
「そうですね……ごめんなさい」
 ポプリは少し笑って、その場を離れようとした。手紙は受け取った。さっさと神殿から立ち去りたかった。……の、だが。
「あの、ポプリ? どうせですから、本殿の方へ行きませんか」
 ロッシュ司祭は簡単に放してくれなかった。くっ。
「いえ、結構です。友達が待っているでしょうし」
 爽やか笑顔で断りつつ逃げようとしたが、ロッシュ司祭はさらに言った。
「ポプリ。お祈りは、あなたには特に必要なものですよ。無理強いはしませんが、あなたのためなのです」
 それだってどうせ、神々に忠実でないと祟るとか罰が下るとか、根も葉も無い根拠ばかりだろう。
「いいえ、私はできるだけ避けて通りたいというか……」
 うっかり本音を交えつつ、ポプリは更に逃げ腰になった。ロッシュ司祭が、覚悟したような顔で言った。
「ポプリ。あなたは信じていないかも知れませんが、神々は実在するのですよ。神殿はオリュンポスと交わる場所です。あなたがもしご自分の運命を呪うなら、どうか祈ってください。神々はあなたの敵ではないはずです」
「……敵よ」
「では、命乞いをする、でも構いません」
 ポプリは首を傾げた。
「司祭さま、どうしてそんなに熱心なのです?」
 司祭は哀しそうに笑った。
「あなたの身の上を、知ってしまいましたから」
 司祭らしい言葉だった。
「神々が敵だとおっしゃるなら、媚びるのもひとつの手ですよ? ……あなたを、お助けして、差し上げたいのです」

 ポプリの負けだった。元々、心配してくれる人の言葉には弱い。ポプリはしきりに溜め息をつきつつ、嬉しそうな司祭の後ろを歩いていた。
 本殿は、ポプリの記憶にあるのと全く変わっていなかった。まあ、どんなに避けていたとは言え、年に一度は来ていたのだからそう変わるはずもないが。
 アステリア女神像が正面からポプリを見下ろしている。ポプリは睨み返した。いつもいつも、人からは「女神の寵愛を受けた子」だのと言われているが、要はこいつが全ての元凶なのだから、寵愛なんかじゃないし嬉しくも何ともない。司祭の手前、膝を立てて祈る格好をしてみたが、ポプリが心で呟いた言葉は挑発だった。媚びるなんて、ポプリはする気がなかった。どうせなら、徹底的に嫌われれば良い。いらないと思ってくれれば良い。
(あんたの生贄なんてまっぴらです。逃げ切ってみせますので見ててください)
 天窓からは空が見えた。星は空が明るすぎて見えない。けれど、その星々が宇宙を形作っているわけだ。
(あんたたちが実在してるってみんな言うけど、宇宙丸ごと作れる存在なんて私は信じないわよ)
 仮に彼らが本当に実在するとしても、宇宙を作ったなんて嘘だ。絶対、崇め奉られるような、そんな力なんて持ってない。自分の運命を翻弄する力を持っているなんて、認めない。
(だからあんたの課した運命も信じない。私は私を救って見せるんだから)
 なんとなくすっきりして、立ち上がる。くるり、ときびすを返して、ポプリはロッシュ司祭のところへ戻った。
「終わりました、司祭様」
「早かったですね」
 司祭が少し複雑そうな顔で見てくる。ポプリは苦笑した。これでも長かった方なのだが。

 その時視線を下げたポプリはふと、足元に紋章のようなものを見つけた。違和感を感じたのは、女神の象徴である薔薇が紋章に刻まれているのに、一緒に描かれているはずのウズラや星などがないこと。代わりに、ケルベロスらしき犬が描かれていた。こんな組み合わせは見たことがない。
「司祭、これ何の紋章なんです?」
 聞いてみたら司祭はああ、と呟いた。
「うちの神殿には所々あるんですよ、これ。女神の紋章の変形ではないですか?」
「……アステリアとケルベロスに何の関係が」
 深く気にとめないことにしよう、と思い、ポプリは司祭に挨拶をしてその場を去ることにした。が、その紋章はやけにくっきりとポプリの頭の中に残った。……どこかで、見たことがある。どこだっただろう。確か、本の中……。

「ポーちゃん」
 声をかけられ、ポプリは顔を上げた。コレットが駆けて来る所だった。
「よかった。遅いからどうしちゃったんだろうって思ったよ」
 ポプリは微笑んだ。ああ、友の顔は、ポプリの精神に対する何よりの清涼剤だ。どこかトゲトゲになっていた気持ちが、すっかり羽毛のふわふわだ。
「遅くなってごめんなさい。大丈夫よ、ちょっと話し込んじゃっただけ」
「そうなの? じゃあ、司祭と仲良くなったんだね」
 にっこりと放たれた、ずれた発言にポプリは苦笑するしかなかった。
「仲良く、って言うか……私の根負け?」
「ええ? じゃあ何、司祭はポーちゃんが心配で神殿に呼んだっていうの?」
 かなり鋭い推測にポプリは一瞬、内心でぎょっとした。
「なんでそういう思考になるの?」
「ポーちゃんが根負けするのって、大好きって言われた時と心配された時ぐらいだもん」
 ……よくお分かりだ。
「いや、今回は単純に手紙について話してただけ」
 コレットはそれを聞いて、表情を堅くしてポプリの手中の手紙を見た。
「……陛下からの?」
「うん」
「大丈夫?」
「うん、星女神讃の休みに帰って来いって書いてあっただけ。ま、無視するつもりだけど」
「ポーちゃん……悪い子」
「反抗期ですから」
 おどけて言うとコレットは軽く吹き出した。
「よかった。ポーちゃん、お父さんから手紙がくるといつも荒れるんだもん」
「そんなに酷い?」
「酷いんじゃなくて、不安になるの。大丈夫かなーって」
 ポプリは嬉しくなって、コレットに抱き着いた。
「大丈夫よ。コレットが心配してくれるなら、どんな逆境でも跳ね返せるわ」
「そ、そう?」
 コレットが照れたように言った時、ポプリはまた例の紋章を見つけた。
「あ、ねえ、コレット。この紋章、どこかで見たことない?」
 ポプリの指さした先を見たコレットは、首を傾げた。
「見た気がするけど、どこかは覚えてない」
「……じゃあ、結構そこらに転がってる紋章ってわけね」
 眉を寄せて紋章をにらむポプリの横顔を、コレットが見つめて呟いた。
「ポーちゃん、またロゼとなにかあった?」
 ポプリはゆっくりと視線をコレットに移した。茶色の瞳は無垢な視線でこちらを射抜いてくる。
「なんでロゼット?」
「司祭がポプリに何か、ポプリが忘れたくなるようなことを言うとは思えないから」
 ……鋭いな。ポプリは少し驚いた。別の何かに集中して忘れようとしていることは、親友にはバレバレのようだ。
「……ちょっと、ね」
 ポプリは呟き、微笑んだ。

 だって、あの「ごめん」は反則だ。あんなやつ、知ったこっちゃないと思っていたのに。たった一言が、今までのどんな嫌味たらしい言葉よりも、腹の底の知れない表情よりも、如実に彼の心境を物語っていた。
(……あいつ、実は結構辛い生い立ちなんじゃ)
 声色に含まれていたのは、正真正銘、同情と謝罪の意だった。大きすぎる運命の歯車に対する同情、辛いことをえぐってしまった謝罪の意。それは「知らない」者が抱く薄い感情ではなくて、「知る」者が抱く心からのものだった。同じような感情を知っている者の、同情と謝罪だった。
 ずるい。敵のくせに。いつも挑発してくるくせに。
「安心して、コレット。喧嘩したわけじゃないわ」
 喧嘩に近かったのかもしれないけれど。しかし、コレットは余計に不安そうな顔をしただけだった。
「……喧嘩していないなら、余計に変だよ」
 そんなに私たちは喧嘩がデフォルトなのか。少し苦笑したが、反論できない。確かに顔を合わせては腹を探りあい、挑発し合い、罵り合う仲だ。
「まあ、なんて言うの? 最初は喧嘩だったんだけど、その最中に意外なことを言われたのよ。うん、そう、それで動揺しちゃっただけ」
「え、告白されたの?」
 あんまりさらりと言われてポプリの顔は火を噴いた。
「なななななんでそうなるの!」
「あれ、違うんだ」
「違うに決まってるでしょう! コレット、私とあいつがどんな関係か知らないの!?」
「だって、意外なことだったんでしょう?」
「それにしたって、言うこと欠いて告白はないんじゃない!?」
 コレットはしばしばと目を瞬いたが、口の端がひくひくしている。ポプリが「ん?」と思っていると、ついに耐え切れなくなったのか、コレットが吹き出した。
「ポ、ポーちゃん……慌てすぎ」
「か、からかってたの?」
「そ、そうじゃないけど! でも、相変わらずなんだねぇ。こういうのに、全然免疫ないんだ」
 ポプリは楽しそうに笑っているコレットを目の前に、少しの間戸惑っていたが、やがて肩を落としてため息をついた。なんか疲れた。

「そろそろ帰る?」
 笑い終わったコレットが、そう言った。ポプリは頷く。
「ユルバンは?」
「たぶん、桟橋で待ってるんじゃないかな。ゴンドラをとっておいてくれてるはずだよ」
「そっか。じゃあ図書館には寄れないわね」
 コレットはまた笑った。
「本、好きだねぇ」
「……調べたいことがあるのよ」
 どうもあの紋章が気になるのだ。家紋一覧でも借りて調べたい。そう思ったところで、その必要がなくなった。思い出したのだ。
「あ、あれ、カヴァルカンティの家紋だわ」
「へっ?」
 突然立ち止まって言ったポプリを振り返って、コレットはきょとんとした。
「カヴァルカンティ? どこの家だっけ」
「星の羅針盤を守護していた家よ」
「そんな名前だったっけ」
「そうよ」
 断言してみたけど、よく考えてみればその情報はロゼットから仕入れたものである。
「……そう、だと思うんだけど」
 急に自信がなくなった。
「でも紋章がカヴァルカンティのものだっていうのは間違いないわ。この前借りた貴族名鑑一覧に載ってたもの」
「そうなんだ……でも、どうして貴族の家紋が、学校の神殿なんかにあるの?」
 ポプリも、ひっかかったのはそこだった。なんだか妙なことを発見してしまった気がした。